三
井場が、力なく崩れ落ちていった。砂の上に築いた楼閣が、その砂の流れに呑まれて崩れていくかのように。
「もっとも、貴方が殺したのは角柳先輩ではないですが」
「何で……何でだ。角柳も、渡瀬も、あんなところに……見つかる、わけが」
「そうですね。貴方が七不思議に見立てるはずがない。七不思議には近付けたくないのですから。あの見立ては、貴方を見張っていた別の人間の所業だ」
七不思議に見立てて殺された。けれどそれが、殺した人間と、見立てた人間が別だったとしたら。見立てた人間は何がしたくて、そんなことをしたのだろう。
井場にとって、七不思議は恐怖だっただろう。竹村竣が七不思議を書き換えようとするのなら、彼はそれに賛同したはずだ。
「俺は、警察官に……正義を、俺なりの、正義……」
「そんなもの、貴方にはありませんよ。序列を覆せなかった貴方に、正義はない」
椅子に座ったままの井場は俯いて、それを尻目に蒼雪は立ち上がる。実鷹もまた彼を追って立ち上がれば、体育教官室の扉が開いた。
「よ、終わったか?」
「終わった。後は頼む」
八重歯を見せて、侑里が笑っていた。彼は笑いながら井場に近付き、うなだれている井場の顔を覗き込むようにする。
「三十五年前、熱心に日比野一慶の失踪を調べた女性みたいな名前の刑事って、三砂
それは、知希のノートにあったもの。知希が井場から聞いた話だ。
「さあ、今から感動の再会といきましょうか、先生?」
そんな侑里と井場を置いて、蒼雪は体育教官室を振り返ることもせずに出ていった。外は雨が降っていて、けれどこれくらいならば傘も要らない。
「行くぞ、佐々木。まだ暴くべきものがある」
「えっ、で、でも」
「竹村竣と峰館さんを殺したのは、井場先生ではないからな」
確かに蒼雪は、井場に「渡瀬と角柳先輩を殺した」と告げた。そして、それは角柳ではないとも告げていた。ならば、竹村竣は、峰館は。彼らもまた【ひとつめ】と【むっつめ】のようになって死んでいたのに。
「いや、でも。じゃあ、見立ては……」
「あれこそ、井場先生を追い詰めるためのものだ。お前の罪を知っているぞと、そう突き付けて井場先生に襤褸を出させるためのな」
井場は、焦ったのだろうか。だからこそこうして、蒼雪の話にうなだれたのか。まだ何も起きていないのなら知らぬ存ぜぬを通して、そして握り潰すことはできたのかもしれない。
けれど、状況がそれを赦さなかった。既に何人も死んでいて、いずれも七不思議をなぞるようにしていて。そこに何かあるぞと伝えるかのように、見立てるようにして置かれたものが井場を追い詰めた。
「種を蒔いたのは、【七怪談の番人】だ。この学園に呪いの種を蒔いた番人は、別にいる」
井場が【七不思議の番人】であったとして、そもそも【七怪談の番人】と【七不思議の番人】は別物だ。一色栄永の書いた物語の中にあった通り、種を蒔いたのは【七怪談の番人】であり、それを刈り取るのが【七不思議の番人】だ。
では【七怪談の番人】は、どうして種を蒔いたのか。【七怪談の番人】は【七不思議の番人】が姿を見せる瞬間を、待っていたのか。
蒼雪は迷うことなく、講堂の方へと向かっていく。そして彼は用務員室の扉を、ノックすることもなく押し開けた。
「……いないな」
「笠寺さんに、用事?」
用務員室の中は、がらんとしていた。蒼雪は誰もいないそこに足を踏み入れ、そして一番奥の棚のところで立ち止まる。まだ年若い笠寺と彼の甥だという少年が笑っている写真が飾られたその前、封筒がひとつ置いてあった。
それは、随分と古びている。何度も出して入れてを繰り返したのか、封筒はボロボロになり、宛名の字も掠れてしまっている。豪快な文字で書かれた宛名は、辛うじて『日比野』という苗字だけが読み取れた。
「そんなところだ。でも、その前に」
蒼雪はそのまま移動して、奥の部屋の扉に手をかける。そして、何を躊躇うこともなくその扉を勢いよく開けた。
「あ、ちょっ、おい!」
実鷹が止める暇もない。笠寺が寝泊まりするのに使っている、つまり笠寺のプライベートな空間であるその部屋を開いた蒼雪の肩を、思わず実鷹は掴んでしまった。
「……探しましたよ、先輩」
「え」
様々な備品が置かれた部屋だった。トイレットペーパーだとか、電球だとか。やけにトイレットペーパーの箱が多いが、それほど消費するのだろうか。男子生徒が主である男子部において、それほどトイレットペーパーの消費が早いとも思えない。
それよりも、部屋の中央。見慣れない灰色の制服姿の青年が、茫然と蒼雪を見ていた。
「あ……あ、ああ……」
「安心してください、角柳先輩。井場先生なら、もう警察に突き出しましたから。さすがにもう、貴方が生きていると分かっても、手出しはできません」
彼の制服の胸のところには、オレンジ色で『角柳』という刺繍があった。
「もっとも、貴方が殺してしまった件について、俺は擁護しませんけど」
角柳は死んだはずだった。けれど蒼雪は、井場に「貴方が殺したのは角柳先輩ではない」と告げていた。生きているのかどうなのかは考えたが、こうして目の前に現れると、実鷹の理解が追いつかない。
「えっ、え? 角柳先輩、なんで……」
「ピアノの指紋。どうして消えていたと思う」
角柳のものとされる遺体は、新校舎の音楽室でピアノの蓋に挟まれるようにしてあった。そしてその遺体があったピアノは、指紋がすべて拭き取られていた。
「犯人が、指紋を残したから?」
「犯人が学内の人間ならば、むしろ消す必要はない。あのピアノは、学内の誰が触っていてもおかしくはない。それこそ井場先生だとしても、ピアノを移動させるなら触るだろう」
それならば、消してしまう方が疑われる。そこで誰かが何かをした、だから指紋をわざわざ消したのだろうと。普段誰が触っているか分からないのだ、学内の人間であれば誰が触っていても疑われはしない。
「導き出せる答えはただ一つ――そこに、学外の人間の指紋がついてしまった。本当はそんなつもりはなかっただろうが、そこに遺体を置くのならば、遺体の手がピアノに触れてしまうのは有り得る話だ」
学外の人間と言われて、思い浮かんだのはただひとり。角柳が死んだとされる前、角柳の兄が宿泊していた。
一卵性双生児であっても指紋は異なるのだと、そういう話を聞いたことがある。それ以外、それこそ遺伝子までもが同じなのに、指紋だけはそれぞれ違う。
「角柳先輩。貴方なら事実を知ったとしても、井場先生に話を聞きに行ったりはしない。貴方はきっとそのまま、すべてを葬ることを選んだでしょう。竹村竣に逆らうこともできなかった貴方ですから」
角柳は、竹村竣に従っていた。彼の父親に頼まれて、父親が竹村竣の後輩だったこともあり、そのまま父親同士の関係性を引き継ぐかのように。
「ですが、角柳会長は違った。あの人は、そういうものを赦さない」
正義感の強い人だったと、蒼雪が言っていた。正義とか、悪とか、そういうものの定義は実鷹には分からない。井場も『正義』とは口にしたが、それは何かの後ろ盾となってくれるようなものなのだろうか。
「たとえ父親諸共であったとしても、その罪を暴く。あの人は、そういう人だ。でも西山寺男子の生徒が勝手に学園内を歩き回ることはできない」
角柳の兄もまた、【ななつめ】に辿り着いたのか。それに父親が絡んでいるとしても、それを赦さなかったのか。
「だから、先輩たちは入れ替わった。そうですよね」
「そう、だよ……カズは察するなり、僕の制服を借りて飛び出した。この学内を歩き回るなら、学園の制服であれば疑われないから。それくらい、僕らは顔だけは似ている」
どんな思いで、角柳は「顔だけは」と口にしたのだろう。歯噛みするような、後悔をしているような、そんな表情に実鷹には見えた。
「結果、角柳会長は井場先生に殺された。体育教官室は井場先生以外誰もいませんから、誰も気付けない。そして遺体は、旧校舎にでも隠したんですかね?」
「……旧校舎の、音楽室。時間も稼げるし、竹村君のこともあるから、きっと」
そこは正しく【ふたつめ】の場所。とはいえ、あの七不思議の本番である【みっつめ】には辿り着かない場所だ。そこにピアノはないものの、場所としては正しいものになる。そして、誰もそこに足を踏み入れることはない。
きっと誰も気付かない。もしも気付いたとしても、竹村竣と同じように七不思議の呪いとして処理される。井場はきっと、そうなるだろうと考えた。
「貴方は、そこで入れ替わったままになることしかできなかった。角柳喜志郎は死んだものとして、角柳喜志和は帰ったものとして。そうしなければ、次は自分が死ぬ」
あれは実は双子の兄であったことが井場に知れれば、井場はきっとその矛先を角柳に向けただろう。兄がそうしたのだから角柳も同じように糾弾をする、そう考えるのならば、同じように角柳も消してしまわなければならない。
「実際には駅まで行って、また戻ってきた。そうですよね? 後部座席に身を潜めて、学園の出入り口の監視カメラでは分からないようにして」
誰も、車から降りなかったとは思わない。笠寺は駅まで送ったと言った。誰もそこでわざわざ「降ろした」などと口にはしない。
そうして戻り、彼らは遺体を動かしたのか。角柳があの日の朝、わざわざ寮の前で万年筆を探していたのも、これから彼が音楽室に行くかもしれないことを印象付けたかったからなのか。朝までは角柳は生きていた、そう思わせるためにも。
「協力者は笠寺さん。それから、芳治さんでしょうか」
「それは……」
「貴方がここにいることが、その証明ですよ。以前俺たちがここへ来た時、貴方は音を立ててしまった。その時扉から見えた布団が、どうにも気になっていました。それから、新校舎の音楽室に自由に出入りしてもあの二人ならおかしくはない」
用務員も事務員も、どこにいようが疑われない。学内の維持が、彼らの仕事だ。
「放送についても、答えは簡単です。放送室の機材の電源を入れておけば、後は事務室から操作ができる。芳治さんは音を鳴らし、放送室の鍵を持って放送室へ行って電源を切った。ただそれだけのことなんですよ」
考えてみれば単純なことだ。ただ、そうであると想像できていなかっただけで。
「先輩。どうして新校舎の音楽室に遺体を動かしたかご存知ですか?」
「え? それは……早めに、見付かった方が安全だろうから、と……」
本当に、それだけなのだろうか。角柳はそれ以上のことは知らないようだが、むしろ遺体が見付からないままの方が良かったのではないだろうか。井場にしてみればそんなところに遺体があるのは驚愕で、しかも角柳が朝まで生きていたともなれば混乱するはずだ。
混乱はきっと、疑心暗鬼を産む。誰かが自分の罪を知っているのではないかと、その考えが井場を苛んだかもしれない。
「ところで、峰館さんが握っていた布。あれは、西山寺男子の制服でした。先輩、制服の裾を見せていただいても?」
蒼雪の言葉に、角柳はゆらりと立ち上がる。そして観念したように制服の裾を引っ張り出せば――そこは引きちぎられたように、破れていた。
「……あの日。僕は、井場先生を追求すべきだと思った。カズを殺しただけじゃなく、渡瀬君まで手にかけたから。これ以上は赦されることじゃない。僕だってカズみたいに行動をして、その罪を暴くべきだと思った」
角柳喜志郎が、角柳喜志和になれるわけではない。けれど、その模倣はできる。「カズのように」と、角柳は覚悟を決めたのか。
「だから、図書室へ行った。峰館さんは奥の部屋にいることが多いし、カウンターから図書室の奥は見えない」
「アルバムや文集を取りにいった?」
「そうだよ、佐々木君」
その図書室の奥で、峰館は死んでいた。その手に月波見学園男子部の制服であるブルーグレーではなく、西山寺男子の制服である灰色の布を握りしめ。
「でも、峰館さんに見つかってしまった。僕は死んでいるはず、カズもいないはず。見咎められて慌てて逃げようとして、制服の裾を掴まれて、そして僕は……」
俯いたままの角柳の手は握りしめられ、震えている。井場のそれとは違う震えを押さえつけるようにして、角柳は毅然と顔を上げた。
「峰館、さんを……突き飛ばして、しまった……!」
不幸な事故だったと、そう言うことはできる。角柳は見付かるわけにはいかなかった。峰館は見逃すわけにはいかなかった。だから。
「殺すつもりなんてなかったんだ! 本当なんだ! あの場で通報したくて、でもできなくて、それで、僕は――」
「先輩」
頭を抱えて叫んだ角柳に、実鷹は何を言えば良いか分からない。そんな実鷹をよそにかけられた蒼雪の声は、どこまでも冷え切っていた。
「俺は、言い訳を聞くつもりはないんです。罪は罪、ならぬはならぬ。貴方はどうであれ、あの場で救急車を呼ぶべきだった。誰かを呼ぶべきだった。そうすれば峰館さんは死ななかったかもしれない」
彼はそうするべきだった。蒼雪の言うことは正論だ。けれどその場で、果たして角柳は正常な判断ができたのか。もしも知れてしまえば井場に殺されるかもしれない。自分は死んだことになっていて、兄は失踪したことになっていて、父もこれに関与しているだろうことも分かっている。
本当にそこで、通報などできただろうか。実は自分は生きていると、誰かに助けを求めることができたのだろうか。まして笠寺や芳治に匿われた以上、彼らをも巻き込むのに。
「でも、貴方は峰館さんを本で隠して、またここに逃げてきた。悪いことだと分かっていながら、貴方は自分の罪を隠した」
「姫烏頭、それは」
「事実だろう、佐々木。これはただの、自己保身だ」
正論を突き立てて、蒼雪は表情を変えることもしなかった。当然のことを当然として言っているだけ、その姿が実鷹にはもどかしい。
「渡瀬の見立ても、三人でしましたか」
「井場先生は、渡瀬の遺体は講堂に隠そうとしていた。それを運んで……最初は、本当の首括りの木に吊るそうとしてたんだ。そのために、トイレットペーパーもそこだけはなくて」
知希が吊るされていた木は首括りの木ではない。蒼雪はそう言っていた。彼がそれをどこで確定させたのかは分からないが、当初の予定では本当にそこに吊るすはずだったのか。
「でも、笠寺さんが……やっぱりそこは止めようって、だから」
どうして笠寺は、そんなことを言い出したのだろうか。やけに多いトイレットペーパーの箱も見立てのためだろうに、そこまでしておいて、どうして。
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