一
月曜日の朝、知希と寮を出たところで角柳と行き会った。寮の近くにある茂みのところをしゃがみ込んで覗いている角柳は、通り過ぎる生徒たちの奇異の目など気にもしていない様子で、困った顔をしていた。
知希とつい顔を見合わせて、実鷹は「あの」と彼に声をかけた。小雨の中で傘も差していない彼に、思わず紺色の傘を差しかける。
「角柳先輩?」
ぱらぱらと、小さく雨の音がする。今は小雨だが、今日はこの後雨足が強くなる。寮の出入り口のところのロビーにあるテレビから、そんな天気予報が聞こえてきた。閉鎖された全寮制の空間では、ニュースすらもほとんど入ってこない。そんな中、必須だろうからと天気予報だけはずっとそこで流されていた。
「え? あ、ああ。君か。ええと……ごめん、名前」
のそりと立ち上がった角柳は、頭に木の葉を付けていた。この土日は雨の合間だったが、今日は朝からしとしとと雨が降り続いている。傘も差さずにどれほどそこにいたのか、角柳のシャツの肩のところが濡れて、張り付いたシャツの下から肌色が透けている。
前髪はすっかり下りて、額に張り付いている。角柳は今日も意志の強そうな顔立ちはそのまま、気弱そうな雰囲気と声音のそぐわなさがあった。彼にそっくりだという一卵性双生児の兄は結局会うことはなかったが、このちぐはぐさが兄にはないのだろうか。
「あ、すみません。僕も、名乗っていなかったので」
思えば実鷹は名乗りもしないで彼の話を聞いていた。蒼雪は名乗ってあったのだろうが、結局実鷹は名乗らずじまいだった。名乗る機会がなかったとも言うが、あまりにも失礼だったという自覚はある。
「佐々木です。佐々木実鷹。こっちは同室の渡瀬知希。何か探し物ですか?」
だから今更ではあるが、角柳に名乗ることにした。ついでとばかりに知希の名前も伝えれば、知希も慌てて頭を下げる。そんな実鷹と知希の様子に角柳は怒るでもなく、目元を緩ませて淡く笑った。
「カズとお揃いの、祖父から貰った万年筆をどこかに落としてしまったみたいでね」
「同室の人には聞いてみたんですか?」
「僕今、ひとり部屋なんだよ。同室の子が高校に上がるときに上がれなくて、ずっとそのまま。そのおかげでカズが泊まりやすくて良かったんだけど。連休だとよく来てくれてね」
双子とは言え、わざわざ創立記念日の連休を使って泊まりに来る。しかも月波見学園は県で見れば南東の端の方にあり、北西に近い場所に位置する県庁所在地からは距離があるのだ。にもかかわらず連休のたびによく泊まりに来るというのは、角柳と双子の兄の間に余程信頼関係がないと成り立たないのではないだろうか。
「仲が良いんですね」
「そうだね。出来損ないの僕にも、カズは優しくしてくれたし。僕が父の後を継ぎたくないって言った分を、カズが頑張ってくれてたんだ」
彼の父親は国会議員である角柳議員だ。世襲議員という言葉はあまり良い意味で使われていないように思うが、そうして役職を継いでいくのもまた、家系というものだろう。
実鷹とて、目指しているのは建築系だった。いつか継ぐものがある人間が、この月波見学園男子部には多い。そもそもそういう家でもなければ、六年間で二千万以上とも言われる学費と諸経費を支払うことはできないというのも事実。
「カズは、僕と違って正義感も強かったし。僕はずっと、憧れてたなあ」
角柳は「ここにはなさそうだし、先週使った音楽室かな」「ありがとう」と告げて、寮へと戻っていく。そろそろ学校の方へ移動しなければ間に合わないが、角柳はこの後音楽室へ探しに行くのだろうか。
それほどに、彼にとっては大切なものなのだろう。この雨の中、濡れるのも構わずに探すくらいには。
「なあ」
雨の音の中、知希の声がした。
「何か、言い方おかしくなかったか、あの先輩」
「言い方?」
角柳の言葉の中、何か引っかかるようなことはあっただろうか。
「何か、何だろうな、こう……もう二度と会えない相手に言う、みたいな」
ぱらぱらと、ずっと雨の音がする。細かな雨粒が傘に当たってはじけ、かすかな音を響かせ続ける。
優しくしてくれた。頑張ってくれた。憧れてた。角柳の言ったものを反芻して、それがすべて過去形であったことに気付く。
「確かに……」
今日は月曜日。角柳の双子の兄は、きっともう西山寺男子にいる。
木曜日に聞いた、「僕はもう呪われている」――その言葉が、実鷹の胸に棘のようになって突き刺さった。
呪われていても、角柳はそこにいる。芽吹いた呪いは、どうなるのか。蒼雪は呪いを否定していたが、やはり実鷹はそれを否定しきれない。
だって。
だってもしも、そうでないのなら――実鷹は、誰を恨めば良いのだろう。
※ ※ ※
突如として教室のスピーカーからピアノの音が聞こえたのは、四時間目のことだった。
授業も終わりに近づき、そろそろ昼食。そんな風に誰もがそわそわとし始める時間帯に、雨降りの学園にはそぐわない軽快なピアノの音が聞こえた。それがどこから聞こえているのかと言えば、特別教室棟にある放送室だろう。けれど滅多に使われない、それこそ避難訓練の時や全校へ向けた放送の時くらいしか使われない放送室から、なぜピアノの音がしているのだろうか。
実鷹はただ、スピーカーを眺めていた。この音楽の名前は何だろう。どこかで聞いたような、そんな音ではある。
バタバタという足音がした。廊下を誰かが走ってくる。教師が廊下へと出て、何かを耳打ちされた後にさっと顔色を変えていた。
「これで授業は終わるが、教室からは出るな! 一切!」
そう叫び声を残したきり駆け出そうとした教師が、「三砂!」と侑里の名前を呼んだ。教室内にいる生徒の視線が何事かと侑里を見るが、侑里は眉間に皺を寄せて教師へと歩み寄っていくだけだ。そして教師に何かを言われ、「分かりました」とだけ彼は返事をした。
そして、侑里は教師に伴われて外へと出ていく。それきり教室内には静寂が訪れ、その一瞬の後にざわめきに包まれた。「何があった」「どうした」「さっきの放送か」そんな声のする中で、実鷹はただスピーカーを見る。
竹村俊は、階段から落下した。あの場所は【雨降りに泣く十三階段】ではない階段で、七不思議の舞台からは少し外れていた。
ならば、その次は。七不思議の【ふたつめ】は【旧校舎音楽室の人食いピアノ】だ。けれど旧校舎の音楽室にはピアノはなく、ピアノがあるのは新校舎の特別教室棟だ。
僕はもう呪われている。
音楽室。
どうしようもなく、嫌な予感がした。
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