四
月波見学園は、創立当初は男子部のみだった。それが今から二十五年ほど前に女子部が設立され、同じ敷地内に全寮制の男子部と女子部がある学園に変わった。とはいえ共学化というわけではなく、あくまでも月波見学園の男子部と女子部。つまり経営母体が同じなだけの男子校と女子校でしかない。
結果として交流はなく、旧校舎の鉄扉は閉ざされたまま。まさにこの扉は七不思議ならばよくある【開かずの扉】――と、そこまで考えて、実鷹は先ほど蒼雪が羅列していた月波見学園の七不思議をひとつひとつ辿ってみる。
十三階段、人食いピアノ。【ひとつめ】と【ふたつめ】は、他でもあり得る内容だろう。けれど【みっつめ】以降はどうだろう。ありそうなものは、【むっつめ】くらいか。
「あれ、開かないのか」
「作られてから一回も開いてないってさ。二度と開かないって話だ」
侑里の言葉に、蒼雪が少し訝し気な顔をした。開かない扉は、二度と開かない。それをどうして侑里が断言できるのかと、問うように。
「二度と?」
「何か、何年か前に鍵を紛失したらしい」
男子部と女子部は隔てられ、唯一繋がるのはこの鉄扉の先にある『御鈴廊下』のみ。けれどこの鉄扉は、二度と開くことはなくなった。
鍵を紛失したという話は、実鷹も初耳だ。そもそも鍵のかかった旧校舎の中だ、今回のようなことがなければ生徒が近付くようなこともないだろう。
「君、そういうのどこから仕入れてくるんだ」
「校内の噂話に耳を傾けてるだけですー。お前が興味なさすぎるんだよ」
侑里の言い分には、つい納得してしまう。蒼雪がクラスメイトの語る噂話に耳を傾けているところなど、今日初めて会った実鷹ですら「ありえない」と思ってしまう。きっと彼はそういうものは右から左で、一人涼しい顔で本でも読んでいるだろう。
対して侑里は、そういう話には自ら突進していく。「なになに、何の話」と言いながら。
「だが鍵を紛失したというのなら、その時は誰かが開けようとしたということだろう」
「さあな。そこまでは俺も知らねーよ」
鉄扉の鍵は失われた。しまってあるのはおそらく事務室だろうが、そこにあった鍵がひとりでにどこかへ消えてなくなるということはない。紛失したというのなら、原因は誰かがそこから持ち出したことだろう。
「鍵がないとなったら、『開くかもしれない』なんて希望も持たないだろ。だからそれで学校側としても万々歳なんじゃねーの。開ける予定もないだろうし」
普段は男子部の中に押し込められて、外に出られるのは長期休暇の時くらい。あとは、申請をして認められた場合だ。外から人が来ることも稀で、時折親族が宿泊申請をして会いに来ることはあるが、その審査もなかなか厳しい。ある意味で、この全寮制男子校というのは監獄にも似ている場所だ。
だからこそ、『御鈴廊下』などと呼び始めたのかもしれない。未だ見たことのない女子部へと繋がる、監獄の外への道。それは、決して開くことはないけれど。
「それで、再度作ったりもしていないと」
「元の鍵がないんだから、業者入れて鍵取り換えるしかないし。使わないものにそこまでの金使ってどうするよ」
この向こうには、女子部へと続く廊下と扉があるだけだ。長く伸びる廊下の中、誰かが立っているということもない。見上げた先にある窓の向こうに見えるのは、からっぽの空間だけだ。
これがすべて壁で覆われているとか、向こう側を誰も知らない部屋だとか、そういうものだったのならば怪談話になったのだろうか。残念ながらこの『御鈴廊下』へと続く扉の向こうは何があるのか分かり切っていて、今更恐怖を掻き立てるものもない。
「開いてはならない、開かずの扉……」
思い浮かんだ言葉を、実鷹はつい口にした。
「サネ、どうした?」
「いや」
もしもこれが怪談話だったのならば、そう称されるだろう。そう思って口にした言葉にあったのは、奇妙な既視感だった。
これは実鷹の創作したものではない。どこか記憶の糸に触れる言葉は自然と実鷹の口から滑り落ちて、砕けることもなく暗い廊下の中を揺蕩っている。まるで実鷹ではない別の誰かの言葉が実鷹の口を借りて出てきたかのような、そんなうすら寒さすらある。
「どこかで、聞いた気がして」
どこで聞いたのかは、思い出せない。昔、小学生の頃に読んだ『学校の怪談』か何かだろうか。それともまことしやかに流れる噂の中にあったのだろうか。小学生の頃、七不思議だ何だと騒がれていることがあった。トイレであるとか、校庭であるとか、理科室であるとか、そういう場所を舞台にして。
思えば月波見学園男子部の七不思議は、妙なのだ。その怪異がある場所といい、その内容といい。トイレや理科室といったよくありそうな場所はなく、銅像や骨格標本が動くだとか肖像画の目が動くだとか、そういうものでもない。
ここが小学校ではなく中学校と高校が一緒くたになった場所だから――というのは、果たして理由になるのだろうか。
「七不思議のどれかっぽいなあ、それ。そういや、うちの七不思議って変だよな」
「変?」
侑里の独り言のような言葉を、蒼雪が拾っていた。彼が言う七不思議が『変』というのはどのような意味か。
「普通七不思議ってさ、トイレの花子さんとか、動く骨格標本とか、あと廊下の鏡……いや、うちの学校の廊下に鏡なんてないけど。そういう、何だろうな」
それを同じ疑問を、実鷹も抱いたことがある。あれは、そう。兄から初めて月波見学園の七不思議について聞いたときだ。あの頃の実鷹は小学生で、学校でまことしやかに語られる怪談話を無邪気に信じていた。
だからこそ、兄の語った七不思議が不思議で仕方がなかった。そしてその不思議で仕方ない気持ちのままに、兄にねだったのだ。続きを教えて欲しい、と。
あの時は、それが何をもたらすのかなど分からなかった。月波見学園の七不思議は呪うだなどと、そんなことは知らなかった。だから、あんな愚かなことが言えたのだ。
「ある種の不気味、あるいは不可解な空気の場所で発生する、明確に悪意のありそうな怖い話。それがいわゆる『学校の怪談』だ。そう言いたいのか」
「そうそう、流石はヒメ」
自分の言いたかったことがきちんと言語化されたからか、侑里がにんまりと笑っている。蒼雪はひどく嫌そうな顔をして、また「ヒメと呼ぶな」と苦言を呈するものの、侑里はそんなものどこ吹く風で聞き流していた。
侑里は彼の言った通り、蒼雪が自分のことを名前で呼ぶまで呼び方を改めるつもりはないのだろう。こうして「ヒメ」「ヒメと呼ぶな」と言い合うのは不毛な堂々巡りのようなもので、きっとどちらかが折れるまで終わらない。
蒼雪はひとつ息を吐き出して、鉄扉に視線を定めたまま口を開いた。
「トイレは、空気が廊下や教室とは違う。そして、一人になることが多い場所でもある。他とは違う冷たい場所で、必ず体の一部を晒さなければならない無防備さ。そういうものが怪異の舞台として選ばれた理由だろう」
確かに小学校のトイレというのは石造りだったのか、やけにひんやりとしていた。あれは水を流して掃除がしやすいようにとか、そういう理由だったのかもしれない。実鷹の通っていた小学校は建物も古く、トイレもウォシュレットもない、一応洋式にはなっているというくらいのものだった。それもまた怪異がいるかもしれないという『異質さ』に拍車をかけていたのだろうか。
怪異の場所として、トイレほど多くを抱えている場所もない。無防備なまま、背を向けている場所がある。一人で風呂に入ったときに鏡に映る影に一瞬ぎくりとするのと、同じことかもしれない。
「じゃあ、理科室とか銅像は」
「理科室も『通常いる教室』とは違う場所だろう。まして骨格標本や人体模型は理科室ではなく、生徒が入れない準備室の中で埃を被っていることも多い」
明るい場所に置かれているわけでもない。薄暗がりの中、どこか不気味なものがある。それは普段自分の体にあるもので、目には見えないもの。想像するしかできないものが、目の前にまざまざと見せつけられているということだ。
だからこそ、怖く思えるのか。普通ならばあり得ない、剥き出しになっていないはずものを剥き出しにしたまま、もしもそれが動いたら、と。
「それから――人は、人間と同じ形をしたものに、恐怖を覚えるんだろう。同じ人間の形をしているのに、理解できないもの。人間の形をしているのに生きていないいものが暗がりにいれば、当然怖いんじゃないのか」
獣の怖さと、人間の形をしたものの怖さは、また別だ。
獣のことなど、人間は普通理解ができない。買っているペットならばいざ知らず、野生動物の思考など人間は知る由もない。だから獣というのは、理解のできない恐ろしさなのだ。
けれど人は、人の形をしているものは、また違う。同じ人間の形をしているのに、理解ができない。人形に対して恐怖心を抱くのは、同じ形なのに無機質だからなのか。
「お前でも?」
「さあな」
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