第九話「春と花は巡る」
朝の
その姿は、どこか凛として、以前よりも一段と穏やかに見えた。
夜明け桜は、あれから枝いっぱいに花を咲かせていた。
淡い桜色の花びらが、まるで光そのもののように輝いている。
数日前、
初めは、ぽっかりと胸に穴が空いたような思いだった。
もっと話したかった、もっと知りたかった、もっとそばにいたかった――そんな彼への想いが何度も込み上げた。
けれど、桜の花びらに触れるたび、彼のあたたかな声が心に
「君の想いが、この桜を動かした」
「名を持たなかった私だが、今、君が見てくれたことで――ようやく『在る』ことができた気がする」
そう言って、最後に微笑んだあの表情は、今でも凛花の中に鮮やかに残っている。
風は、もうこの庭にはいない。
それでも、彼の想いは、この桜に――いや、自分の中にも、確かに生きている。
そう思えることが、凛花にとって何よりの救いだった。
「……おはよう。今日もきれいね」
凛花はそっと枝を見上げて微笑んだ。
風が去ってからも、桜は咲き続けている。
ひとつの想いが終わっても、また別の想いが花をつける――それが、命のつながりなのだろう。
その日、凛花は短冊を一枚、枝に結んだ。
墨の文字は、小さく、けれどまっすぐに書かれていた。
『ここに 想いを残します あなたと咲かせた春を 忘れません』
風がいたこと、想いを託されたこと。
それを、ただひとりの記憶に閉じこめるのではなく、言葉としてこの木に結びたかった。
夕方、庭には小さな変化があった。
後宮の
「……こんなに咲いたの、見たことないわ」
「夜明け桜って、本当に花が咲くのね……」
その声のなかには、もはや
ただ、驚きと、感嘆と、少しの敬意があった。
凛花はその様子を、そっと遠くから見守っていた。
ただ、『この桜が咲いてよかった』と、みんなが思ってくれれば、それでいいと思えた。
――誰かのために花が咲くということ。
それは、自分ひとりの満足ではなく、想いが広がっていくということ。
凛花はようやく、それを実感として知ったのだった。
夜になると、再びひとりで桜のもとへ足を運ぶ。
風はいないけれど、その気配は確かに枝に、空に、風に宿っている気がした。
「……ねえ、風様。見ていますか?」
問いかけても、返事はない。
けれど、その沈黙が不思議とやさしかった。
もう、答えを求めなくてもいいのだと思えた。
仮面の青年は、たしかにこの庭にいて、自分の想いを桜に残した。
そしてその想いは、凛花の中にも根を張り、これから咲いていくのだ。
「これからは、私が見守ります。あなたがいた
凛花は、そう静かに誓った。
月が雲間から顔を出し、夜明け桜の花びらを照らす。
風が吹き、花びらがひとつ、空へ舞い上がった。
それはまるで、誰かの想いが自由になって空へ帰っていくような、美しい光景だった。
春は、また巡る。
咲いた花はやがて散り、そしてまた
凛花は、今日もこの木の下に立ち続ける。
過去を抱きながら、未来へ目を向けて。
――それが、
そして、自分の想いを託していくということ。
夜明け桜は、今宵も静かに揺れていた。
あの夜と同じように、やさしく、あたたかく。
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