花霞の君へ
りおん
第一話「花の娘、後宮に入る」
春の気配がようやく山を越え、都の空気に溶けはじめた頃。
ひとりの娘が、
その名は、
十七の春、名も低い地方藩の下屋敷に生まれた娘。
『花のように美しい』と、幼い頃から言われ続けてきた。
それは、ただの褒め言葉ではなかった。ときに
凛花には、それがよく分かっていた。
伏し目がちに笑えば、誰もが思わず息をのむほどだった。
だがその美しさは、家の誇りであると同時に、凛花自身には、重くのしかかるものでもあった。
――こんな美しさなんて、いらない。
何度も、そう思った。
ときには自分が憎らしくなって、鏡を見るのもいやになることがあった。
けれど、この姿で生まれたことを、両親に責めることはできなかった。
この歳まで大切に育ててくれた人たちを、傷つけるような言葉は言いたくなかった。
召し上げの知らせが届いたのは、冬の寒さが深まったある日だった。
帝の側に仕える
それは名誉であり、同時に重荷でもあった。
父はしばらく黙ったまま悩み、母は何度も泣いた。
凛花は、笑わなかった。ただ、黙ってうなずいた。
それが、自分にとっても、両親にとっても、藩にとっても一番だと、そう思い込もうとした。
「凛花様、お覚悟を……」
付き添いの老女が、そっと声をかけた。
朱塗りの門の奥――そこが、後宮。
外の世界から切り離された、美しくも冷たい
凛花は小さく息を吸い、そして、簾の向こうに足を踏み出した。
石畳の白さが、朝の陽を受けてまぶしく光っている。
両脇に並ぶ女官たちは、誰も笑わず、無表情のまま頭を下げていた。
「ようこそおいでくださいました。以後、お見知りおきを……」
迎えに来た女官が、儀礼的にそう述べる。
その目が、鋭く凛花の顔を見たのが分かった。
あからさまではないが、興味と警戒が入り混じった視線だった。
――また、顔を見る。
心の中で、凛花はそっと息をついた。
どこへ行っても、まず顔を見られる。
自分がここに選ばれた理由は、それしかない。それを一番よく知っているのは、自分自身だった。
女官たちの後ろには、広く整えられた庭が広がっていた。
松や梅が端正に植えられた中に、一際目を引く一本の木があった。
それは、淡く紅がかった
けれど満開にはほど遠く、どこか寂しげに見える。
「……あれは?」
思わず目を止めると、女官が眉をひそめて答えた。
「夜明け桜と呼ばれる桜でございます。帝の
「なぜですか?」
「咲いたことがないのです。三十年、ずっと蕾のまま」
ちょうどそのとき、風が吹き、蕾がひとつ静かに揺れた。
――咲かない桜。
夜明け桜が、なぜか凛花の胸に残った。
その桜と自分が、少し似ているような気がしたのかもしれない。
頬を撫でるように風が吹いた。
黒髪が揺れ、髪に挿した
「こちらが、今宵よりお休みになる部屋でございます」
案内されたのは、庭の端にあるこぢんまりとした部屋だった。
華やかさはないが、掃き清められた床と
部屋に足を踏み入れると、ふいに身体が重く感じられた。
無理もない。初めての場所、初めての空気。
凛花は几帳のそばに静かに座り込み、ようやく緊張の糸をほどいた。
「……ここで、私は生きていくんだ」
つぶやいた声が、自分でも少し震えているのが分かった。
胸の奥に、じわりと不安が広がる。
家族と別れ、名も知らぬ女たちに囲まれ、帝という遠い存在のために尽くす――
その始まりが、いま目の前にある。
そして、自分がここにいる理由が『美しさ』でしかないのだとしたら――それを失ったとき、自分はどうなるのだろう。
そんな思いが、凛花を不安にさせる。
そのとき、風に乗って舞い込んだのは、蕾のような、けれど花びらのようにも見えるものだった。
まだ咲いていないはずの桜から、どうして――
凛花はそっと手を伸ばし、その小さな
まだ咲いていない花。
けれど、確かにそこに在る命。
それは、咲くことを恐れず、静かに時を待っている。
胸の奥に、小さくても確かなぬくもりが灯る。
凛花はゆっくり立ち上がり、朝の光の中へと歩き出した。
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