第8話「自由の選択」

 クロードとミランダが舞台から去り、ラヴェルシア帝国には新たな時代が訪れようとしていた。その中心にいたのは、間違いなく私、リリアナ・ヴェルモントだった。

 ヴェルモント商会は帝国経済の要となり、私は皇帝の要請を受け、経済改革の顧問として多忙な日々を送っていた。貴族たちはもはや私を無視できず、むしろ競うように私に媚びへつらった。人々は私を「ラヴェルシアの宝石」と称賛した。


 そんなある月夜の晩、商会のバルコニーで帝都の夜景を眺めていると、背後から静かな足音がした。エリオットだった。

「今日も一日、お疲れ様、リリアナ」

 彼は私の隣に立ち、同じように夜景を見つめた。

「あなたもね、エリオット。…いえ、シルヴァン殿下」

「ここではエリオットでいい。君といる時は、ただのエリオットでいたいんだ」

 彼の優しい声に、心が和む。


 しばらくの沈黙の後、彼はこちらに向き直った。その瞳は、いつになく真剣だった。

「リリアナ。君に伝えたいことがある」

 彼は私の手を取り、その上に自分の手を重ねた。

「俺は、君を愛している。君の強さも、優しさも、賢さも、時折見せる弱さも、すべてを。どうか、俺の妃として、隣で共に歩んではくれないだろうか」


 彼の真摯な告白。シルヴァニア王国の王子からのプロポーズ。

 かつての私なら、いえ、この世界のどんな令嬢でも、飛び上がって喜ぶだろう申し出だった。

 私の心も、確かに高鳴っていた。彼のことは、誰よりも信頼し、尊敬し、そしておそらくは、愛している。

 けれど――。


 私はそっと、彼の手をほどいた。

「エリオット、あなたの気持ちは、とても嬉しいわ。本当に」

 私は精一杯の微笑みを浮かべた。

「でも、ごめんなさい。今すぐには、その申し出を受け入れることはできない」

 彼の瞳が、悲しげに揺れる。

「一度、婚約という形で裏切られた経験は、私が思うよりも深く心に傷を残しているようなの。誰かに与えられた『妃』という立場に、今の私は幸せを見出せない。それに…」


 私は夜空を見上げた。星が綺麗だった。

「今の私には、守りたいものがたくさんあるの。この商会も、ルナや子供たちの未来も。それは、誰かに頼るのではなく、私自身の手で守り抜きたい。それが、私の選んだ道だから」

 一度は他人に人生を決められ、すべてを失った。だからこそ、今度こそ、自分の意志で、自分の人生を自由に選択したかった。


 私の決意を聞いたエリオットは、悲しみの表情から、やがて穏やかな微笑みに変わった。

「…そうか。君らしい答えだ」

 彼は寂しさを隠しもせず、しかし、私の決断を心から尊重してくれているのが伝わってきた。

「ならば、妃としてではなく、パートナーとして君の隣にいることは許されるだろうか?」

「パートナー?」

「ああ。君が新たな道を切り拓くというのなら、その旅の仲間として、俺も一緒に歩きたい。王子としてではなく、商人エリオットとして、君のビジネスパートナーとして。世界には、俺たちがまだ知らない素晴らしいものがたくさんあるはずだ。一緒にそれを見つけに行かないか?」


 その言葉は、私の心を強く打った。

 妃になるのではなく、対等なパートナーとして、共に未来を築いていく。それこそが、私が本当に望んでいた関係なのかもしれない。


 私は、ここ最近ではすっかり口にしなくなっていた、あのおまじないを、久しぶりに心の中でそっと呟いた。


(だまぁ)


 でも、それはもう、感情を抑えるための言葉ではなかった。溢れ出しそうな幸福な気持ちを、確かめるための合言葉。

 私は、心の底からの、一点の曇りもない笑顔をエリオットに向けた。


「ええ、喜んで。私の最高のビジネスパートナーさん」


 数週間後、私は一つの大きな決断をした。ヴェルモント商会の帝都本店は、後継者として十分に成長したルナに託すことにしたのだ。そして私は、新たな交易ルートと、まだ見ぬ商品を求めて、旅に出ることを決めた。

 もちろん、その隣には、商人エリオットの顔をした、頼もしいパートナーの姿があった。

 もう、私は悪役令嬢ではない。王子の婚約者でも、聖女でもない。

 ただの、リリアナ・ヴェルモント。

 自分の人生を、自分の足で歩く、一人の自由な女性だ。

 その事実が、何よりも誇らしかった。

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