籠城②

 夜が訪れても、ラウィニアに静寂は訪れなかった。市内の大半を占拠し残りはパテル・ディウス神殿のみとなり、勝利を確信しつつあった極北人ヒュペルボレオイが獣のような雄叫びを上げ続け、夜のしじまを破っていたからである。


「うひゃあ。マズいぜ、こりゃ。生き残りはパテル・ディウス神殿にいるんだろうけど、このままじゃそいつらも飢え死しちまうぞ」


 ラウィニアの郊外、北東にある市内を一望できる丘から情勢を確認しているのは、パリスの指示でラウィニアに敵接近の報を告げにやって来たアキレウスであった。だが、いざ来てみれば市内はほぼ敵に制圧されて残りは神殿のみといった現状を知り、自分の到着が遅れたことを後悔する。


 どうすればいい? 避難先で助けを求めてる人達は、これからパリスが軍を率いてラウィニアに向かって来ることを知らないだろうから、敵に囲まれるのに耐えきれずに降伏しちまうかもしれねえ。そうなったら、神殿に逃げた人達は酷い目に……。


 最悪の事態を考えているうちに、ふとアキレウスの脳裏にあの人のことが思い浮かんでくる。


 マリアちゃんは大丈夫だよな? まさか市内で敵の手に……。いや、そんなはずはねえ! そんなこと、起こっちゃいけねえんだ! 


 アキレウスは、ズボンのポケットに押し込んでいたアクセサリーに目をやる。折れた角がハンダ付けされた牛の首飾りを眺めること数秒。気が付けば、彼は丘の斜面を駆け下りていた。


 こいつを、死んじまった母さんが捨てた妹の……マリアの首にかけた首飾りを、マリアにかけてやって僕は伝えたいんだ。「また会えてよかった」って!


 今は亡き母が、郊外で牛の放牧をして生計を立てていた同じく今は亡き父にあやかり、なけなしの金を出して職人に作ってもらった牛の飾りがついた首飾りを、自分の手で妹に返したいという気持ちが、アキレウスの疲れていた足に力を与える。敵がウヨウヨしているラウィニア市内にも、誰にも気付かれずに潜入できるような気がしていた。


 マリア、もし神殿にいるなら生きる希望を捨てないでくれ! 今、兄ちゃんが行くからよ!


 迷いを捨てたアキレウスは、一直線にラウィニアへ向かい潜入を試みるのだった。



 パテル・ディウス神殿に立てこもる避難民一同は徐々に衰弱していった。アキレウスが懸念していた食料不足が生じ、さらに麓からひっきりなしで聞こえてくる敵の大声に眠りを妨げられたために、肉体と精神の両面で弱っていったのである。


「マリアお姉ちゃん、ボク、ご飯いらない」


「お姉ちゃんのことは気にしなくていいのよ。ほら、あなたが食べなさい」


 しかし、マリアだけは別であった。神殿内の僅かな食料備蓄を平等に分配し合うことに決めた結果、一人当たりの食料配分がとても少なくなってしまったことを不満に思い他者から略奪して腹に詰め込む輩がいた中で、彼女だけは腹を空かせていた子供に自分の食事を分け与え、自分は残された分で既に一週間近くも過ごしていた。


「食べられた? じゃあ、ごちそうさまをしましょうね」


「うん、ごちそうさまでした。それと、お姉ちゃんにありがとうございます」


 扉にかんぬきをかけられ、神殿の外側がよく分からない状況にあって、マリアと幼い子供達が見せる食事の風景は、すさんだ心の避難民達を癒していた。しかし、それだけではなかった。


「ねえ、マリアお姉ちゃん。あたし、お姉ちゃんのお歌、聞きたい」


「いいわよ。どんなお歌が聞きたいのかしら?」


「『パアルシウスとアンドゥロメデの物語』がいい」


「あらあら、女の子はみんな、お姉ちゃんにそのお歌をお願いしてくるのね」


 微笑を作りながら、マリアは歌の朗誦をお願いしてきた少女に、パリスと一節づつ交互に朗誦した『パアルシウスとアンドゥロメデの物語』を詠ってやる。満足に食事がとれずにいたにも関わらず、その声は澄んでいて少女だけでなく周囲に腰かける大人達ですら魅了するものであった。


 綺麗な歌声。でも、なんなの、あの子。わたくしがたくさん嫌がらせをしてきたのに、ぜんっぜん弱らないだなんて……。


 この一週間でマリアにこっそりと意地悪を――食料の分配を担当する男性を脅しマリアの分だけ少なくさせたり、同じ貴族身分の婦人らと陰口を叩きあって評判を下げようとしたり、さらには適当な理由を付けて彼女を当たり散らしたりしてきた、リキニアさえも、例外ではなかった。


「『乙女は、自分を悪しき人々から救ってくれた美丈夫に言いました。あなたはこれからどうするのですか、と。美丈夫は答えました。あなたと共に祖国に戻り、永遠の愛を誓って指輪を渡し、そして死が二人を分かつまであなたと愛し合いたい、と。乙女はそれを聞いて顔を林檎リンゴのように赤く染め、目の前に立つ美丈夫に答えました――」


「ねえ、ちょっと。あんた」


 既に少女は眠りについていたがなおも詠うのを止めないマリアに、リキニアが詰め寄る。マリアは一瞬驚くが、すぐに人差し指を口にあてた。


「この子が起きちゃうので、静かに話していただけませんか」


「は? なんでわたくしが粗末な平民服を着たあんたの言うことを聞かなきゃ――」


「静かにお話をしていただけませんか」


 いきり立ったリキニアの態度を見ても、マリアは冷静に同じ言葉を繰り返した。そんな彼女の振る舞いを見たリキニアは、少し態度を軟化させ改めて尋ねた。


「ふんっ、なら今回だけは特別に平民のあなたのお願いを聞き入れて、小さな声であなたに話してさしあげますわ」


「ありがとうございます」


「じゃあ、すぐに答えてちょうだい。あんたはなんで平気なの?」


「それは、どういう意味でしょうか?」


「はぁ? だってあんた、こうやって長い間神殿の外に出られなくて、出られたとしても外にある神殿の備蓄庫から食べ物を取りだす時とお花摘みに行く時だけなのに、『怖いー!』とか思わないの?」


 コケー!


「コケコ、その女性を突いちゃ駄目。その人は私をイジメに来た訳じゃないのよ」


 イジメに来た訳じゃない、という言葉をマリアの口から聞かされた瞬間、少しは彼女に譲歩して優しい態度で接してやろうと思っていたリキニアは、それまで自分がしてきた行いを指摘されたと勘違いしたのであろうか。


「こ、こいつ……」


 今はマリアの指示に従って大人しくしている雄鶏のコケコに手を伸ばした。辺りに

恐怖を感じたコケコの声が響き渡る。


 コケコッケー!!


「な、何をするんですか!?」


「黙りなさい!」


 ピシャリという音が神殿内に反響する。次に立ち上がろうとしたマリアが尻もちをつく音がして、最後に「痛い……」とマリアが呟き左頬を押さえていた。


「なによ、下出したでに出れば、わたくしがあんたをイジメたことをこの狭い場所で責めてやろうと考えるだなんて! ほんと、酷い女ね。あんた」


「……?」


「ああそう。そうやって無言を貫くってわけ。じゃあ、いいわ。こっちにも考えがあるわ」


 リキニアは神殿内にあった短剣を持ち出し、それでコケコを屠ろうとした。


「や、やめてください!」


「嫌よ。だってわたくし、あんたがこのニワトリと仲良く話してるのがずっと気に食わなかったんですもの。こんな、肉として食べられる運命にある家畜を人みたいに扱って、しかも話してるだなんて。あーあ、気味悪いったらありゃしない」


 マリアの必死の制止を無視し、リキニアが短剣でコケコの喉元を裂こうとした、その時。


 コッケーー!!


「あ! こいつ、よくも……」


 コケコがリキニアの左手の甲をひっかき、傷口からの出血と痛みに呻くリキニアの隙を突いて神殿の入り口に走っていく。しかし入り口はかんぬきがかけられていて、雄鶏のコケコに開けられるはずもなく、


「このニワトリめ! もう許さないわよ!!」


 その背後からリキニアが怒気をはらんだ顔で、右手に短剣を握ったまま近づいて来る。コケコにもはや逃げ場はなかった。しかし……。


「おっ、コケコかい? じゃあ、その中にはマリアちゃんもいるってことだな。はあ、よかった。危険を冒してここまで来た甲斐があったってもんだぜ!」


 い、今の声、愛しのパリスさまといつも一緒だったあの男の声に似てるような……。ってことは近くにパリスさまが!


 からんと短剣が床に落ちる音がした。そして次の瞬間、リキニアは扉のかんぬきを持ち上げ、神殿内に入って来たアキレウスに頻りにこう尋ねていた。


「ねえ、パリスさまはどこ? どこなのよ? ねえ、早く教えなさいよ。わたくし、あの方がわたくしを助けに来てくださるのを毎秒毎秒考えていたんですのよ。ねえ、早く教えてちょうだい!」


「わ、分かった。分かったから落ち着いてよ。執政官コンスル閣下の御令嬢さま。ちゃんとみんなに話して聞かせるからさ」


 リキニアの執拗な態度に気後れするアキレウスだったが、やがて彼女の背後でコケコにいつもの笑顔を作っているマリアの姿を確認すると、思わず笑みがこぼれるのであった。

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