マリア、新たに養母の過去を知る

 マリアは初対面の老人に手を引かれ、彼の自宅に案内された。簡素な調度品が置かれただけの質素な居間で夕食を採り終えると「ごちそうさまでした」とお礼を述べた。


「いえいえ、こちらこそ。簡単な食事しか用意できなくて申し訳ない」


 謙遜する老人に「おいしかったです」と言いつつ、マリアはテーブルを隔てて向こう側に座る老人の突拍子のない行動に感謝していた。宿を探しに行っていたグナエウスが空き部屋を見つけられず、このままでは野宿せねばならない状況にあったからである。ちなみに、そのグナエウスもマリアの隣でガツガツと食事にありつき、最初に食べ終えていた。


「あの、すいません。お爺さん。もうそろそろ――」


「まあ、そう慌てなさんな。私は逃げないから。食器を片付けてからでも遅くはない」


「それならやっときますぜ。爺さん。夕飯を食わせていただいたお礼になるかは分からねえけどよ。あと、ついでに洗って置いときますよ」


 マリアがすぐにでも老人の話を聞きたくてうずうずしているのに、その老人がもったいぶっているように見えてイライラしているのを察してか、グナエウスが食器の片づけを申し出た。老人もそれを無碍にするのは申し訳ないと思ったのか、彼の背中に目を向けて「ありがとうございます」と言ってから、マリアに目を移す。


「さて。マリアさん。まずは名乗らないといけないね。私はカトゥルス。かつてこのラウィニアで教育者をしていた者だ」


「カトゥルスさんは先生だったんですか」


「そうだ。それで、君とテレンティアさんとの話に入るんだがね」


 カトゥルスがそこで言った時、台所からグナエウスの声がした。


「爺さん。片付けは終わったぜ。あとは二階に行って休ませてもらうよ」


「どうぞ」


 二人だけの内密な話を耳にするのは良くないと思ったのであろう。グナエウスは早めに片づけを終わらせて、階段で声の届かない二階へと上がっていった。そして扉が閉まる音がしたのを確認してから、カトゥルスは本格的に語り始める。


「十五年程前まで、私は十代後半の青年を相手に授業をして、未来のラウィニアを担う人材の育成に励んでいた。修辞学や幾何学、天文学に算術など教えられる科目は全て教えていた。多くの門下生が私の許から巣立ち、国政に参与していくのを、私はとても誇らしげに感じていたものだった」


 カトゥルスが昔を懐かしむような目をして黙りこむが、すぐに続きを話し始めた。


「ある日のことだった。私の学校に一人の少女が『入学したい』と言って申込書を届けに来た。当初は入学を認めなかった。私に限らずラウィニアの学校では男性のみ入学が許されていて『女性は家で粛々と機織りをするべき』という考えが常識だからね。しかし、その少女は何度書類を突き返しても私の許を訪れるものだから、最後は根負けして彼女の入学を認めたのだ」


「もしかして、その女性が――」


「そう、テレンティアだった。彼女は入学後も男性受講生に混じって勉学に励んでいた。周囲の差別的な視線にもめげず、無遅刻無欠席で朝一番に登校し、帰りはいつも最後まで残り、私に分からないことを訪ねてはそれに納得するまで帰ろうとはしなかった。そんな彼女の様子を見ているうちに『これは本気だ』と思うようになっていったよ。正直に言えば、周りからの視線に耐えられなくなって辞めてしまうだろうと思っていた」


 そうだったんだ。ママはそういった目で見られてたんだ……。


 マリアを注意深く観察するような目付きをしつつ、カトゥルスは続ける。


「だがそれも長くは続かなかった。彼女は私の学校を自主退学してしまったのだ」


「自主退学? ママに何かあったんですか」


「恋だ」


「恋? ママが誰かに恋したんですか」


「いや、逆だ。恋されたのだ。同じ学校に通う受講生にね。やがて、その受講生は彼女に夢中になり過ぎて勉学を疎かにして欠席も増えた。私は学校の経営者兼教育者としてそのような行いを見過ごすわけにはいかず、彼を退学処分にした。しかし、その後でテレンティアが私のところに来て、『私も退学させてください』と訴えてきた。


『私のせいでその男性の学問への熱意を吹き消してしまったのに、私がお咎めなしというのはおかしいと思うのです』


と告げてきたのだ。最終的には彼女の御両親と相談の末に、本人の自主退学を認めてやった」


 ママにそんな過去があったんだ。とてもそんな風には見えなかったけど。


 マリアが自分の知らない養母テレンティアの過去に驚いているのを見やりつつ、カトゥルスの話は語りを再開する。


「それから十年間、テレンティアとは会えなかった。父から勘当され家を追い出されたこと、ラウィニアを出ていったことは噂で知ったが以降の行方は分からないままだった。しかし偶然にも彼女と再会する機会があった。マリアさん、少し前にあなたとお会いした女神エウメニス様の祠でね」


「それで、その時のママが……」


「幼い君を連れていた。『父に勘当され、ラウィニアを出た直後に拾った子なんです』と説明してくれたよ。今はファレルの神殿で巫女として働いていることも教えてくれた。君も含めた親に捨てられた子供達を預かって神殿で養育していたことも、とても嬉しそうに語っていたね。ただ一方で、彼女は諦めたような表情をしていたのを、今でも鮮明におぼえている。


 テレンティアは、君が祠に興味を惹かれて私達に注意が向いていない時、こう言ってきたのだ。


『私は、意図せず男性に過ちを犯させた罪を貞節の女神に仕えることで、そして一生の純潔を誓い実行することで償うつもりでいます。ですが今もこうして片時も離れようとはしないマリアには、私が諦めた女性としての幸せを手にしてほしいとも思っています』


とね」


 マリアは生前のテレンティアとの会話を思い出した。それは自分が彼女と悲しい別れをする直前の、五歳の誕生日を祝ってもらった時のことだった。


『ねえ、マリア。大きくなったら何になりたいの?』


 テレンティアにそう聞かれて、確か自分はこう答えたはずだ。


『お嫁さん! 私ね、世界一かっこいい男の人と結婚して、ママとパパの前に連れてくるの! それでね、ママとお絵描き勝負してマリアが勝って、その男の人にチューされるところを見せるんだ!』


 今思えば、夢見がちな少女の妄想たっぷりの、荒唐無稽な夢。だがそれをテレンティアは馬鹿にはしないで、こう言って励ましてくれたのだった。


『その夢、絶対に叶うわ。ママもマリアと同じ夢を昔はもってたんだけど、今のママは諦めたからその分マリアの夢をエウメニスさまは叶えてくださるわ』


 その時の自分には、なぜ養母テレンティアが夢を諦めたのかが理解できなかった。また、頻繁に神殿を訪れては自分と養母に親しく接してくれる養父マリウスと結婚してほしいのに、とも思っていたが、カトゥルスの話を聞き終えて納得がいった。


 ママ、私が知らないところで、たくさん苦しんでたんだね。自分の幸せを捨ててまで、私の幸せを願っていたのはなんとなく察してたけど、そんなに固く決意してたなんて私、知らなかった。


「マリアさん。私はテレンティアについて知っているのは以上なのだが、それから彼女は君と上手くやって――」


 コッケーーー!!


「な、なんだ!? 今までずっと静かにしていた雄鶏が急に……」


「コケコ。怒らないで。カトゥルスさんは本当に何も知らないの。私を悲しませようとして、意地悪な質問している訳じゃないのよ」


 マリアの言葉をコケコは理解して、それ以上はカトゥルスを威嚇を止めて大人しくなる。


「カトゥルスさん。あの、実は」


 マリアが重い口を開き、カトゥルスの知らないテレンティアのその後を、自分が知っている限りのことを教えてやった。


「そうだったのか。申し訳なかった。君に苦しいことを思い出させてしまって」


「いえ、いいんです。私も心の整理がついてきてるので」


 マリアがそう言ったのと同時に、外が何やら騒がしくなってきた。続いて、二階にいたグナエウスが腹立たし気に階段を降りて来て、言った。


「外がうるさすぎて眠れやしねえや。おい、爺さん。このラウィニアって国は夜になるといっつもこんな感じなのかい?」


 グナエウスの問いに、カトゥルスは首を横に振ってから答えた。


「ここ数日、夜は昼以上に騒々しいのだ」


「そりゃなんで?」とグナエウス。カトゥルスはさらに続けた。


「戦争が近いと専らの噂でね。それを聞きつけた周辺国のあぶれ者が傭兵として雇ってもらおうとラウィニアに集まり、今では宿を後払いで借りてどんちゃん騒ぎをして周りに迷惑をかけている。執政官コンスルのクラッスス殿は取り締まるどころか彼らを当てにして、敵が攻めてきた際の戦力に勘定しているらしいが……。はたして金目当ての連中がしっかりと働いてくれるのやら」


 カトゥルスはそう言って嘆息した時に、政治に疎いマリアが頭に?マークを出しているのを見て、話題を変えることにした。


「私ばかりが喋り過ぎてしまったね。ところで、マリアさんはどういった目的でこのラウィニアに?」


 すると、マリアはカトゥルスの手を握り、熱心に頼むのだった。


「私、実はママが目指してた学校の先生になりたいんです。ラウィニアには先生を目指す人を育てる先生がいるってパパから聞かされて来ました。もしもカトゥルスさんがそのような先生なら、お願いです。私を一人前の先生にしてください!」

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