体育の授業(課外活動)➂
ファレル市内が騒然となっていた頃、マリアと子供達はゆっくりと河に沿って山を登っていた。
「ねえ、マリア先生。このお花なあに?」
「これはね、キクジシャっていうのよ」
「キクジシャ?」
「そう、キクジシャ。キャベツみたいでしょ」
「ほんとだ! ねえ、マリア先生。このキクジチャ、食べていい?」
「あら? 駄目よ。今日は山の
マリアが女児に話していると、二人の後ろにいた男児がいきなり泣き出して、マリアに駆け寄ってきた。
「あら、どうしたの? ルキウス君。しくしく顔になっちゃって」
ルキウスという名の男児は、右手に持つキクジシャを見せて言った。
「しぇんせい。これ、おいじぐにゃい……」
「あらー、ルキウス君。キクジシャは噛むと苦いのよ」
「どうずればいいの……」
「そういうときは水筒のお水を飲んで、お口の苦みとバイバイしましょ」
マリアの提案に「はーい……」と力なく答えてから、ルキウスは自分の腰ベルトにかけてあった水筒を取り出し、その中にある水をぐいっと飲む。彼の顔からは悲しみの表情は消え失せ、代わりに満面の笑みが現れる。
「苦くなくなったよ。マリア先生!」
「よかったわね。ルキウス君」
「でもお水なくなっちゃった」
ルキウスが手に持つ水筒を逆さにすると、水は一滴も落ちてこない。
「ぜ、全部飲んじゃったの?」
「うん。苦いの苦いのが飛んでかなかったし、喉がべたべたしてたから……。ごめんなさい。マリア先生」
頭を下げたルキウスを、マリアは咎めたりはしなかった。
「いいのよ。先生もルキウス君みたいにキクジシャを食べてたら、きっと水筒のお水を全部飲んじゃってたと思うから。謝らなくてもいいのよ」
ルキウスを気遣うマリアだったが、この一事がきっかけになったのであろう。その直後、
「マリア先生。水がないでーす」
「僕もー」
「あたしもー」
と次々に水筒の水を飲み干したという子供達の報告が飛んできた。
少しずつ飲みましょうね、って伝えたんだけどなあ。
マリアの見通しは甘すぎた。そもそも五、六歳の子供達が先生の話を聞いて素直に従うとは考え難い。彼女はそういったことにまで頭が回っていなかったようだ。
「マリアちゃん。水なら、この近くに綺麗な水が汲める井戸があるんで案内するよ」
そんな時、マリアに助け舟を出してくれたのが、マリウスから彼女に付き従うよう打診され、そして今もこうして子供たちの課外活動に随行していた男の一人、グナエウスであった。
「ごめんなさい。グナエウスさん」
「いいんすよ。マリアちゃん。子供は素直が一番。喉が渇いたら飲む。食べたくなったら食べる。遊びたくなったら遊ぶ。眠くなったら寝る。そういうもんじゃないっすか。がーっはっはっは!」
グナエウスの態度が子供達にはおかしく見えたらしい。子供達が続々と笑顔になっていった。
ありがとうございます。グナエウスさん。
先ほどまで子供達の水分補給について内心慌てていたマリアは、グナエウスの良い意味で楽観的な、それでいて周囲を明るくする人柄に前向きな気持ちを取り戻すのであった。
◇
「あれ? おかしいぞ」
それから数十分が過ぎた頃。マリアと子供達、それにグナエウスも含めた一行は目的地の井戸に到着した。と、そこでグナエウスが怪訝そうな顔をした。
「どうしたんですか、グナエウスさん」
「どうしたのー、おじちゃん」
マリアと子供達に、グナエウスは答えた。
「いや、俺ともう一人、君たちに同行する男の人がいただろ? セクストゥスって名前の」
マリアも子供たちも、セクストゥスの名を聞いて、自分達には随行者がもう一人いたということを思い出した。というのも、マリアの引率が始まった当初こそセクストゥスは一行に付き従っていたのだが、井戸に着く前、具体的には子供達が水を飲み干したのをマリアに報告する前に姿を
「何か
「いや、ちょっと目を離したら見えなくなってた。しっかし、アイツはどうしてマリアちゃんの課外活動に同行したんだろうな。そんな柄には見えないんだがねえ」
グナエウスはさらに続ける。
「アイツは、マルクス議員の
マルクス議員といえば、マリアが引率している子供の一人であるガイウスの父で、ファレルで絶大な権力を誇る政治家だ。彼は奴隷を使役して大規模農場を経営して私腹を肥やし、さらには借金を肩代わりしてやる代わりに債務者を自分の手先として利用している、との噂はマリアも聞いたことがある。
次第にマリアの心配は大きくなっていく。だが、
「マリア先生。お水を入れてください」
と子供達から催促されたために考えるのをやめて、子供達の水筒に井戸水を注ぎ入れることにした。
「どうぞ。蓋はしっかり閉めてね」
「はい、分かりました。マリア先生」
そして子供達の持つ水筒の全てに水を入れ終えると、マリアはここで休憩を取ることを子供達に伝えた。
「マリア先生、大丈夫?」
「汗でお顔がびちゃびちゃだよ?」
二人の女児が、マリアを心配そうに見つめて言った。やはり、幼くても女の子。他者への気遣いは男児よりもできるようだ。
「大丈夫。マリア先生は頑丈だから!」
マリアが二人の女児に応じていた、その時。
「誰かいるのか!」
マリアの隣に佇むグナエウスが、いきなり大きな声を出したかと思うと、周囲に目を凝らすような動きをし始める。
「グナエウスさん?」
不思議に思って、マリアが周囲を警戒し続けるグナエウスに声をかけようとした、次の瞬間。
「うわぁっ!」
「やめて!」
「うわぁーん!」
子供達の悲鳴がほぼ同時に、マリアの耳に届いた。これには彼女も平静ではいられなくなる。
何が起こってるの? 何が――。
その直後にマリアは後ろから誰かに襲われ、意識を失うのだった。
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