体育の授業(課外活動)①

 明かりのない部屋のベッドの傍に、マリアが一人で立っていた。


「ここ、どこ?」


 周囲を見渡すと、そこには地に倒れ伏して動かない人々の姿があった。


「し、死んでる……?」


 腰が抜けて動けなくなるマリアに、近寄る一つの影があった。


「おや? これはこれは、素晴らしい戦利品ではないか」


 大柄で豊かなひげを口と顎に蓄えているその男は、胸を贅肉ぜいにくのない腹筋で飾り、左手には円盾を、右手には両刃の斧を持っていた。その声音は下品な男が発するそれであり、マリアを女性として見ていないのは明らかだった。


 怖い……。誰か助けて!


 男から距離を取ろうにも足に力が入らない。その間にも男はにじり寄ってくる。品性の欠片もない、マリアを物として見つめる目付きをして。


「離れなさい!」


 その時、マリアは自分が心より愛してやまない女性の声を聞く。そして次の瞬間にはその女性が男の左手に噛みつき、マリアに近づけさせまいと懸命になっているのを目にした。


「うるさい! 老いた女に興味はない!」


 怒り狂った男は、自分に纏わりつく女性を強引に振りほどくと、地面に体を強く打ち付けて動けない彼女に、躊躇ちゅうちょなく得物の斧を降ろそうとする。


「だめぇーーーーーー!!」



 ドスン、という音と共にマリアが目を覚ます。周囲を確認すると右手にはベッドが、左手には化粧台が、そして上を見上げると格子付きの窓があった。


 なんだ。夢だったんだ。


 そこがいつもの私室であり、自分がベッドから滑り落ちたことにマリアはようやく気付く。


 コケッ?


 「あ、ごめんね。コケコ。心配させちゃって」


 雄鶏おんどりのコケコに謝っていると、階段から誰かが上がってくる音がした。まもなく、マリアの私室の扉が開かれる。


「マリア、大丈夫か?」


「大丈夫だよ、パパ。ちょっと夢見が悪くて……いたたっ」


 父に心配をかけさせまいと気丈に振る舞うマリアだが、やはり勢いよくベッドから落ちた時の衝撃で右肩を痛めたらしく、その痛みに顔を歪めてしまう。


「肩が痛むのか? なら、お前に任せていた今日の課外活動の引率は、保護者に頭を下げて別の授業に取りやめに――」


「だめだよ、パパ。私、知ってるんだよ。パパが幼児用の教材を作るのに忙しくて、最近は寝不足だってこと」


「うっ」


「それに、パパは腰の痛みがひどいんでしょ? だったらなおのこと、今日はできるだけ家で養生しなくちゃダメよ」


「じゃ、じゃが」


「大丈夫だよ。パパ。今日で新年度開始から一ケ月が経ったんだもの。私、この一ケ月間は一度も朝寝坊をしなかったの、知ってるでしょ? 本当はやりたくてたまらない絵描きをしないで、その代わりに子供たちの性格や好きなもの、苦手なものとかの情報をばっちしメモして忘れないようにおぼえたんだから!


 だから……ね? パパはお家で休みながら、来週の教材作りを頑張ってほしいな」


 マリアの真摯な言葉を聞かされたマリウスは、娘を抱き寄せるとこう言った。


「分かった。じゃが、無理するんじゃないぞ。もしも引率の途中で具合いが悪くなったら、事前にお前と子供達の警護を頼んでおいたわしの協力者に正直に言いなさい」


「はい、分かりました。パパ」


「それと今年の五月は昨年よりも熱くなりそうじゃから、これを被っていきなさい」


 マリウスは前もって用意しておいた日よけ帽を、娘のマリアに被せてやる。


「これって確か、パパが馬に乗って戦う時に使ってた軍用品じゃなかった?」


「そうじゃ。じゃが、四十を過ぎて徴兵対象から外れた今となっては無用の長物じゃから、お前にプレゼントしてやろうかと思ってな。それとも、田舎っぽい被り物は嫌か?」


「そ、そんなことないよ。ありがとう、パパ! これ、大事に使うね!」


 さて、会話を終えたマリアはいつもよりは早く起床したので、少し余裕をもって出発の準備を始めることにした。


「まずは水筒を用意しなくちゃ」


 初めにマリアは、自分と子供達にもたせるための水筒を備品室から持ち出してきた。一ケ月で何度も備品室に足を運んだおかげか、どこに何が置かれているのか手に取るように分かっていたので、


「よし、人数分の準備完了!」


 僅か数分で必要量の水筒は集めることができた。


「えーと、次は市内の水汲み場に行って、水筒の一つ一つに水を入れて集合場所で待機している子供たちに手渡す、と」


 次にマリアは、ファレル市内に設置されている水汲み場に向かうことにした。


「うーむ。往復するの面倒だから、全部持って水汲み場にいっちゃうか」


 マリアは両手で十本の水筒を持ち、そのせいで前の視界が塞がりつつあるにもかかわらず、そのままの態勢で目的地へと歩いていこうとした。と、その時。


「おぅ、マリアちゃん! 今日の引率よろしくね」


「ふにゃあっ!?」


 不意に声をかけられたマリアは偶然か、それとも何らかの因果によるものなのか、一ケ月前と同じく家の玄関前で盛大にすっ転び、そして前と同様に手に持っていた物を、即ち水筒を全て街道に転がしてしまうのだった。

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