第5話 常世の磐座
アリア・ロッシという戦士がもたらした混沌。それが、僕らにとって唯一の活路であった。蜘蛛の糸と呼ぶにはあまりに力強く、しかし、救いと呼ぶには血の匂いが染みつきすぎている。我ながら、随分と詩的な表現が思い浮かんだものだと、この極限状況下における己の脳の呑気さには、もはや呆れるほかない。
僕たちは走った。ただひたすらに。背後で交錯するであろう二つの正義の銃声も、断末魔も、全てを振り切るように。相葉が命綱として繋いでくれるタブレットのナビゲーションと、アリアから託された羅針盤の確かな光だけを道標として。
数日が、数年にも感じられる逃避行だった。昼は獣道を、夜は星明りを頼りに進む。泥に汚れ、木の枝で身体を切り裂き、湧き水を啜って渇きを癒やす。そんな原始的な行為の繰り返しの中で、僕の五感は、都会の喧騒の中ではとうに退化していたはずの、野生のそれに近づいていく。風の匂い、土の湿り気、遠くで響く鹿の鳴き声。そして、僕たちの背後、遥か遠くで蠢く、二種類の執拗な追跡者の気配。それらが、肌を粟立たせる現実として、僕の意識に絶えず警鐘を鳴らし続けていた。
「……神代君、見て」
疲労の滲む声で、引野さんが空を指差した。木々の隙間から見上げた空に、巨大な影が滑るように横切っていく。ステルス輸送機。DARPAの連中だ。空から僕たちという矮小な獲物を捜索している。
「大丈夫。相葉が僕たちの熱源反応を周囲の動物のものと誤認させるプログラムを、常にアップデートしてくれてる」
僕は彼女を安心させるように言ったが、自分の声が微かに震えているのには気づいていた。相葉のデジタル欺瞞が、いつまで絶対的な軍事技術を相手に通用するというのか。僕のこの空虚な言葉と、どちらが先に化けの皮を剥がされるか。
僕たちは互いの存在だけを支えとして、この果てしない巡礼を続けた。疲労が限界に達し、引野さんが膝から崩れ落ちそうになる。僕は何度も力の糸で支えた。彼女の黄金色の光もまた、僕が精神の消耗で倒れそうになるたびに、その魂を削るようにして、僕の心を温めてくれた。僕たちは、もはや「鍵」でも「器」でもない。ただ、互いの命を預け合い、一つの目的地を目指す、二人の巡礼者だった。
そして、逃避行が始まって五日目の夜明け。ついに、その場所は僕たちの眼前に姿を現した。
そこは、人の営みから完全に隔絶された、神域と呼ぶに相応しい場所だった。樹齢何千年にも及ぶであろう巨大な杉の木々が天を突き、その足元には、見渡す限りの苔の絨毯が広がっている。空気はどこまでも清浄であり、訪れる者の魂を試すような、厳かな重みに満ちていた。その中心に、天から落ちてきたかのように、巨大な一つの岩塊――磐座が鎮座している。表面は風雨に削られ、悠久の時を物語る複雑な模様が刻まれていた。
僕と引野さんは、言葉もなく、その圧倒的な存在感を前に立ち尽くした。ここだ。僕たちの血に刻まれた、全ての始まりと、そして終わりの場所。
「……待っていたぞ、巡礼の子らよ」
年輪の重みを感じさせる声が、磐座の影から響いた。そこに立っていたのは、白い
「おぬしらが、古の契約を継ぐ『鍵』と『器』か。……ふむ。随分と、か細い魂じゃな。これほどの重荷を背負うには、あまりにも」
老人は僕たちを値踏みするように一瞥する。
「儂の名は、
「……はい」
僕の声は、自分でも驚くほど、落ち着いていた。
「ならば、見せてみよ。おぬしらが、その宿命を背負うに値するかどうかを」
時守と名乗った老人が、右手をすっと掲げる。その瞬間、磐座全体が、地響きと共に微かに脈動した。僕たちの足元の地面に、古代文字とも幾何学模様ともつかぬ、複雑な紋様が淡い光を放ちながら浮かび上がる。これは……結界。
「おぬしらの祖先もまた、この試練を乗り越え、災厄を封じた。今一度、その血の記憶を、その身に刻むがよい」
結界が完成した刹那、僕と引野さんの意識は、急速に現実から引き剥がされていった。視界が白く染まり、過去と未来が混淆する、魂の深淵へと引きずり込まれていく。
*
僕たちを待ち受けていたのは、言葉による問答などではなかった。それは、魂の最も奥深くにある記憶とトラウマを、容赦なく抉り出す過酷な精神の試練だった。僕の力の暴走で砕け散る小鳥の幻影が引野さんを襲おうとした瞬間、彼女の黄金色の光が、僕の罪の記憶そのものを優しく包み込んだ。『大丈夫』声にはならないその温もりが、僕の罪悪感を癒やすのではなく、共に背負うと告げていた。僕もまた、彼女が救えなかった命の嘆きが生み出す絶望の奔流から、力の糸で彼女を守り抜いた。
僕の前には、あの日の小鳥が、そして水上さんが、メガフロートで散っていった名も知らぬ人々が、怨嗟の声を上げながら現れる。引野さんの前には、彼女が救えなかった命が、その苦しみを訴えながら集う。
けれど、僕たちはもう独りではなかった。
僕は、僕の力の糸で、彼女を苛む過去の幻影から守る。彼女は、彼女の光で、僕の罪悪感を優しく包み込む。互いの弱さを補い合い、互いの痛みを分かち合う。それは、二人でなければ決して乗り越えられない、魂の共鳴の儀式だった。
どれほどの時間が経ったのか。僕たちが再び目を開けた時、時守は、静かに僕たちを見つめていた。その瞳には、先程までの厳しい光はなく、どこか慈しむような、穏やかな色が浮かんでいた。
「……見事。おぬしらは、血の宿命を受け入れ、そして、二人で共に乗り越える道を選んだ。ならば、真実を語ろう」
時守は、僕たちを磐座の地下へと続く隠された階段へと導いた。そこは、太古の神殿だった。壁一面に、色鮮やかな壁画が描かれている。僕たちの祖先と思しき二人の男女が、荘厳な鎧を纏った異邦の騎士たち。おそらく太古の聖槍騎士団員だろう。彼らと協力し、混沌とした姿の『大いなる災厄』を、巨大な石の扉の向こうへと封印する様が、克明に記録されていた。
「これが、最初の戦いの記録。そして……」
時守が指し示したのは、壁画の最後の部分だった。そこには、災厄を完全に封じるための、最終儀式の様子が描かれていた。
「『鍵』たる者が、その全生命エネルギーを以て時空の扉を開き、『器』たる者が、その魂そのものを
その言葉は、無慈悲な死の宣告だった。僕の命はどうでもいい。だが、引野さんまで? 僕が彼女をこの地獄に引きずり込んだのか? 守ると決めたはずの、この手で? 冗談じゃない。これ以上の皮肉が、この世にあるというのか。僕と引野さんが、自らの命と魂を捧げる。それが、世界を救うための、唯一の方法だと?
絶望が冷たい霧のように心を覆う。こんなのが、辿り着いた、旅の終着点だというのか。
「しかし……」
時守は意味深に言葉を紡ぐ。その瞳に、暗い光が宿る。
「古文書には、もう一つの道筋も、僅かながら記されておる。それは、神をも欺く、禁忌の秘術。魂そのものを捧げるのではなく、魂の『写し身』を鋳造し、それを贄とする外道の技。だが、成功の保証は何一つない、あまりにも危険な賭け……」
彼の言葉が終わるか終わらないかのうちに、神殿全体が、激しく揺れた。
磐座に張られていた結界が、外部からの強力な攻撃によって、悲鳴を上げている。
『那縁! ヤバい! DARPAのクソッタレどもが、結界に穴を開けやがった! 長老会の連中も、雪崩れ込んでくるぞ!』
タブレットから響く相葉の絶叫が、僕たちに、残された時間がもう僅かしかないことを告げていた。
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