第3話 血の残響

 北アルプスの山中深く、苔むした石段を登りきった先に、その古寺はあった。相葉のタブレットと、アリアの羅針盤が共に指し示した、僕たちの巡礼における最初のマーカー。朽ちかけた山門をくぐると、そこは時の流れから取り残されたかのような、静寂の世界だった。本堂の屋根からは草が生え、風化した仏像が、慈悲とも諦念ともつかぬ表情で、僕たちを見下ろしている。


「……ここが、最初の聖地」


 引野さんが、どこか畏敬の念を込めてつぶやく。彼女の共感能力が、この場所に残る、遥か太古の記憶の残滓を感じ取っているのかもしれない。だが、僕の心は、張り詰めた糸のように、片時も休まることはなかった。追跡者の気配はまだない。だが、それは嵐の前の静けさに過ぎないことを、僕は知っていた。


 その、静寂を破ったのは、僕の耳にだけ届く、懐かしい、そして聞きたくもない声だった。


「――よぉ、那縁。また、守れなかったみたいだな」


 心臓が氷の手に掴まれたような感覚。振り返った僕の目に映ったのは、いるはずのない男の姿だ。中洲の路地裏で、頭部を噛み砕かれて死んだはずの、先輩エージェント。


「水上、さん……?」


 彼はあの頃と寸分違わぬ姿で、本堂の屋根の上に立っていた。飄々とした笑み、軽口を叩くような口調。だが、その瞳の奥には、何の光も宿っていない。空虚な、ガラス玉のような瞳。


「な、んで……。あなたは、あの時……」

「俺が死んだ? ああ、そうだな。お前のせいでな」


 その言葉は、僕の罪悪感という古傷を、容赦なく抉る鋭利な刃だった。彼――いや、彼の姿をした「何か」は、ゆっくりと屋根から飛び降りると、無音で着地した。


「お前が俺の背後で震えていなければ、俺は死なずに済んだ。お前の恐怖が、俺を殺したんだ。覚えているか、那縁? 俺の血の温もりを」


 違う。これは、水上さんじゃない。……そうだ、これは「観測者」の残滓。僕のトラウマを餌にして、水上さんの姿を模した、紛い物だ。頭では分かっている。だが、僕の身体は、罪の意識に縛られていた。


「来るな……!」


 強引に体を動かす。僕は防御一方だ。水上さんの姿をした「何か」の繰り出す、生前の彼を遥かに凌駕する高速の体術を、サイコキネシスの壁で、ただ、ひたすらに防ぐ。破壊してはいけない。この姿を、僕の手で、二度も壊すことなど、できるはずがなかった。


「神代君、目を覚まして! それは人間じゃない!」


 引野さんの悲痛な叫びが、遠くに聞こえる。だが、僕の耳には、偽りの先輩の囁きだけが、呪いのようにこびりついていた。



 聖域のカンファレンスルーム。相葉陽太は、モニターに映し出された新たな脅威の出現に、悪態をついた。


「ったく、面倒なのが湧いてきやがったな! 那縁の奴、完全に精神攻撃メンタルやられてやがる!」


 彼の指が、凄まじい速度でキーボード上を舞う。現場から送られてくるデータを解析し、その正体を探る。現場の引野さんから送られてくる微弱な生命エネルギー反応を解析。……ビンゴだ。バイオシグネチャは、ハシュマル機関の死亡したエージェント、水上みなかみさとるのものと九十九・八パーセント一致。だが、データ構造が異常だ。本来あるべき生命活動のコア――心音が存在せず、代わりに過去の行動ログを延々とループ再生する、ただの『エコーデータ』だった。


「……こいつ、死んだ水上さんの情報だけをコピーして、那縁の記憶をトリガーに動いてやがる。魂の残響……ただの『エコー』だっ!」


 相葉は、その紛い物にコードネームを与えると、すぐさま待機していた人物へと、セキュア回線で接続した。


『――状況は?』

「よぉ、アリアさん。あんたの思った通りだ。観測者の野郎、とんでもねえ悪趣味なオモチャ――『エコー』を送り込んできやがった。このままじゃ、那縁の心がおれる」

『……だろうな。奴の弱点は、その過剰な自己犠牲の精神だ』


 アリアの声は、どこまでも冷静だった。彼女は、那縁がこの試練を乗り越えることを、信じている。いや、乗り越えなければ、その先に道はないことを、誰よりも理解していた。


『相葉陽太、奴に伝えろ。亡霊は、後悔を喰らって動く。喰わせるな、と。……過去は変えられない。だが、その記憶の意味は、今のお前が変えるんだ。未来を掴むその手でな』


 その言葉は、かつて彼女自身が、誰かに言われたかった言葉なのかもしれない。



『――那縁! 聞こえるか! そいつは水上さんじゃねえ、魂の残響、ただの「エコー」だ! それとアリアさんから伝言だ! 「過去を受け入れろ」だってよ!』


 タブレットから響く相葉の声で、僕は、はっと我に返った。そうだ。僕はいつまでも過去に縛られているわけにはいかない。水上さんの死を、無駄にしないためにも。


「……引野さん」


 傍らで僕を案じる彼女へ視線を送る。彼女は僕の覚悟を悟り、力強く頷いた。


「僕はもう間違えない」


 エコーを真っ直ぐに見据えた。彼の姿は、もはや僕の罪悪感を刺激するだけの亡霊ではない。僕が乗り越えるべき、過去そのものだ。防御のために展開していたサイコキネシスの壁を解いた。それと同時に、白亜の庭での試練を経て会得した、あの無色透明な力の糸を、再び指先から紡ぎ出す。


「……なんだ、その力は」


 エコーの瞳に、初めて戸惑いの色が浮かぶ。僕の力の糸は、彼の拳を、足を、胴体を、破壊するのではなく、その構成情報を読み解くように、優しく、しかし確実に、絡め取っていく。


「水上さん。あなたは、僕を庇って死んだんじゃない。僕たちを、未来を守るために、自らの命を燃やして戦ったんだ。……あなたの誇りは、僕が受け継ぐ」


 封印していた真実の記憶が、濁流のように流れ込んでくる。そうだ、水上さんはあのとき、すでに死んでいた。僕を庇った訳ではない。彼は頭の半分をアノマリー・ラットに食われ、即死していたのだ。臨終の顔は酷く怯えていた。


『――ありがとうございました、水上先輩』


 心からの感謝の言葉に呼応するように、エコーの苦悶に歪んでいた表情が、ふっと、あの頃の飄々とした水上さんの笑顔に戻った。彼は満足げに頷くと、自ら光の粒子となって、朝の光の中へと溶けるように消えていった。呪縛からの解放であり、本当の意味での、別れと継承の儀式だった。

 エコーが完全に消え去った、その時。


 けたたましい警告音がタブレットから鳴り響いた。


『――那縁、ヤバい! 東と西から、二つの部隊が、その寺に急速接近中! 長老会と、DARPAだ!』


 一難去って、また一難。僕たちの巡礼の旅は、いよいよ、三つ巴の死闘へと、その様相を変えようとしていた。

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