第6話 偽りの聖体拝領
「――本物の地獄へようこそ……本番とも言うが」
アリアの言葉は、絶望の宣告ではなかった。それは、戦場に立つ者から、同じく戦場に立つ者へと送られる、無慈悲で、しかしどこか対等な響きを伴う、開戦の号令だった。僕の心の奥底で、最後の躊躇いが砕け散る。そうだ、感傷に浸っている暇など、一秒たりともない。そんな権利は、僕にはない。
「相葉!」
僕が叫ぶと、彼は弾かれたように自分のノートパソコンに向き直った。
「汚染源の位置を特定できるか!」
「無茶言うな! これだけ広範囲の同期汚染だ、物理的な増幅装置がどこかにあるはずだ。おまけに、この聖域のネットワークからじゃ、外部のインフラ情報にはアクセスできねえ!」
相葉の言う通りだ。僕たちにできることは、あまりにも少ない。
その時、アリアが僕の隣に立ち、コンソールを操作して、日本列島の詳細な地図をモニターに映し出した。
「案ずるな。外部に我々の『目』がある」
「『目』……?」
「そうだ。ハシュマル機関にも、政府にも属さない、我々だけの協力者だ」
彼女の言葉の意味を、僕が理解するよりも早く、相葉のパソコンに一本の暗号化された通信回線が開かれた。その回線の主の名を見て、僕は息を呑んだ。
「氷川、さん……?」
*
西新宿の超高層ビル。氷川怜は、眼下に広がる地獄絵図から目を逸らし、最後の賭けに出ていた。三枝からの監視を潜り抜け、彼が独自に構築していた聖槍騎士団との裏ルート。それを今、彼は相葉陽太へと接続したのだ。
氷川の指が、凄まじい速度でキーボード上を舞う。三枝が自衛隊の特殊部隊に設置させた、汚染源――東京スカイツリーの頂点部に秘密裏に設置されたミーム増幅装置――の座標データ。そして、彼が掴んだ、より絶望的な情報。
「……増幅装置は、破壊すれば汚染ミームをエネルギーとして暴走、半径三十キロ圏内の全生物の精神を回復不能なレベルで焼き切る、精神的な爆弾。核よりたちが悪い。三枝の狙いは、混乱の責任をハシュマル機関と聖槍騎士団になすりつけ、両組織を壊滅させることだが……愚かだな。度し難い。その前に日本が滅ぶだろうが」
彼が全てのデータを送信し終えた、その瞬間。凄まじい音を立てて部屋のドアが破られ、黒い戦闘服に身を包んだ男たちが雪崩れ込んできた。三枝の飼い犬、公安の特殊部隊だ。
彼らは一切の警告を発することなく、氷川に銃口を向ける。絶体絶命。だが、氷川の顔には、もう二重スパイとしての苦悩の色はなかった。彼は静かに眼鏡を外し、そっと胸ポケットにしまった。脳裏によぎるのは、悲しげな両親の顔、そして「よくやった」とでも言うように不敵に笑う橘の顔、さらには、生意気だが信頼できる若き仲間たちの顔だった。
「……僕の役目はここまで」
その唇が、誰に聞かせるでもない感謝と別れの言葉を紡ぎ終えるのと、乾いた銃声が部屋に響き渡ったのは、ほぼ同時だった。
「あり得ない……」
公安の誰かがつぶやいた。
氷川は三メートルの距離から放たれた弾丸を避けていた。彼の精神感応が射手の思考を読んでいたのだ。
「ははっ……ハシュマル機関舐めんなよクソ公安」
弾丸はぶ厚い窓ガラスに小さな穴を開けていた。そのまわりには蜘蛛の巣状のヒビ。それがあっという間に窓ガラス一面に広がった。
唖然としている公安を尻目に、氷川は窓ガラスを突き破って脱出した。五十五階。落ちれば死あるのみ。
「くたばれ」
窓の外、落下する直前、氷川が中指を立てながら言った。次の瞬間、部屋のベッドに置かれていたアタッシュケースが爆発を起こした。
*
「――スカイツリーだと!? クソッ、なんて悪趣味な野郎だ!」
氷川から送られてきたデータを解析して、相葉が叫ぶ。その情報には、汚染ミームの拡散パターンだけでなく、増幅装置を破壊することの危険性も、明確に記されていた。
「破壊できない、か。……ならば、解体するまでだ」
アリアは冷静につぶやくと、僕の方を振り返った。
「神代那縁。お前のその、ガラス細工を編むような力で、増幅装置の心臓部を、内部から無力化できるか」
「……やってみる。いや、やる」
僕は覚悟を決めた。だが、これほどの遠距離の精密操作。僕の精神力が、果たして持つだろうか。
「引野さん」
僕が呼ぶと、彼女は黙って僕の隣に立った。彼女は、僕が何をしようとしているのか、全てを理解していた。
「私の、全部、使って」
彼女の小さな手が、僕の背中にそっと触れる。その瞬間、単なるエネルギーの供給ではない、引野さんの『信じている』という想いそのものが、僕の心の回路を駆け巡り、サイコキネシスの無数の糸を、より強靭な鋼のワイヤーへと変えていく。僕の視界と、彼女の祈りが、完全に一つになる。彼女は、自らの命を削り、僕の力の射程と精度を、限界以上に引き上げようとしていた。
「――いくぞ!」
僕は意識を集中させた。東京の狂気に満ちた空へ。スカイツリーの頂上へ。僕の無数の力の糸が、物理的な距離を超えて、増幅装置の内部へと侵入していく。それは、時限爆弾を解体するよりも、遥かに繊細な作業だった。力の糸をメスとし、増幅装置の神経回路を一本一本切断し、エネルギー炉心をバイパスさせ、暴走のトリガーとなる起爆回路を、原子レベルで組み替えていく。それはもはや、念動力ではなく、神の領域にも似た外科手術であった。
一つ、また一つと、装置の心臓部を構成する部品の分子結合を、丁寧に、確実に、解いていく。世界中の憎悪を凝縮したかのような、おぞましいミームエネルギーが、僕の精神を直接攻撃してくる。だが、背中の引野さんの温もりが、僕の心を繋ぎとめてくれていた。
そして――。
最後の結合を解いた瞬間、増幅装置は、ただの鉄の塊と化した。
日本中を覆っていた狂気の嵐が、嘘のように、ぴたりと止んだ。人々は、我に返り、自らが犯した所業を前に、呆然と立ち尽くしている。
ハシュマル機関司令部にて、橘は三枝の計画失敗を確認し、安堵の息を漏らしていた。
*
白亜の庭。
僕は精神力の全てを使い果たし、その場に崩れ落ちそうになる。それを、引野さんが力強く支えてくれた。
アリアはモニターに映る結果と、その場に膝をつく僕を交互に見比べ、硬い表情のまま、しかし確かに驚愕に目を見開いていた。『……見事だ、神代那縁』辛うじて聞き取れたラテン語。彼女がつぶやいたその声には、初めて、侮蔑ではない、一人の戦士に対する純粋な賞賛の響きが込められていた。
だが、安堵したのも束の間だった。聖域の、最も深い地下から、これまで感じたことのない、地響きのような、邪悪な脈動が伝わってきた。それと同時に、墓場の土をかき混ぜたような、ひやりとした腐臭が、施設の換気口から微かに漂い始めたのだ。
モニターに、相葉がハッキングの過程で見つけた、あの言葉が、不吉に表示されていた。
『Project:Falsa Communio』
偽りの聖体拝領。
まだ何も終わっていないことを、それは告げていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます