第4章 偽りの聖体拝領
第1話 地球の裏側の戦火
月光が、数千年の歴史をその身に刻むイタリア・トスカーナ地方の古代エトルリア遺跡に、墓標の影を落としていた。糸杉の葉が風にそよぐ乾いた音だけが、血と硝煙の匂いが混淆する冷涼な夜気を揺らしている。
その太古の静寂を切り裂いたのは、鋭い金属音と、到底人語とは思えぬおぞましい咆哮だった。
「――第五陣、散開! 聖句障壁を維持しろ! 絶対に詠唱を乱すな!」
凛として、しかし切迫感を隠せない女性の声が、古代遺跡の空気に張り詰める。聖槍騎士団精鋭部隊の指揮官、アリア・ロッシは、抜き身の長剣に宿る清浄な光をもって、眼前に迫る「何か」を的確に斬り払った。敵は、かつてメガフロートに出現した「観測者」の残滓。それは物理的な実体を持たず、遺跡の影そのものに憑依し、接触した者の精神を内側から汚染する、極めて厄介なアノマリーであった。
黒い影の触手が、騎士の一人の足に音もなく絡みつき、その精神を捕食せんと蠢く。
「させるか!」
アリアの声は怒りというより、不純物を断つ鋼鉄の響きを帯びていた。彼女は躊躇なく、仲間の足元に長剣を突き立てる。剣から放たれた聖光が、影の触手を焼き切った。しかし、敵の侵食は止まない。遺跡全体が、一個の巨大な生命体さながら、不気味に脈動している。数の上では騎士団が圧倒しているはずなのに、影は無限に湧き出てくるようだった。
その時、アリアの耳に装着された通信装置から、総長アルビレオの重々しい声が直接届いた。
『――アリア。そちらの掃討は第二部隊に任せ、直ちに帰還せよ』
「総長! しかし、この残滓は危険です。ここで完全に浄化しなければ、いずれ欧州全土を蝕む癌となりましょう!」
『いや、もはや優先順位が違う。日本で予言にあった『鍵』と『器』が、我らの想定を遥かに超える形で覚醒した。黄昏の刻は、我々が考えているよりも早く訪れるやもしれん』
アルビレオの声には、僅かだが確かな焦燥が滲んでいた。
『ハシュマルの長老会ごときの承認など、もはや構ってられん。直ちに日本へ飛べ。そして、予言の子らを、我らが『白亜の庭』へ『導く』のだ。……いかなる手段を用いても、だ』
アリアは一瞬、眉根を寄せた。ハシュマル機関――騎士団が「異端」と断じる組織に与する少年と少女。彼らを、騎士団の最も神聖な場所へ、だと? 疑問を口にする間もなく、アルビレオは言葉を続ける。
『これは決定だ。世界の存亡を賭けた、我らの新たな一手だ』
アリアは唇を噛み締め、眼前の蠢く影を睨みつけた後、短く、しかし力強く応じた。
「――御意に」
*
ハシュマル機関研究施設「ネスト」の医務室にて、僕はゴロゴロしていた。いや、この無為な時間を的確に表現するならば「陳列されていた」が正しい。ネスト包囲事象の翌日。まだ日は高い。昨日の狂騒が遠い過去の出来事であるかのように、世界は静寂に満ちている。だが僕の心は、自らが現出させた『贖罪の迷宮』の、あの湿った土の匂いを未だに記憶していた。巨大な力の行使が僕に残したのは、安堵という陳腐な感情ではなく、ただ底なしの虚無感だった。人間とは、何かを成し遂げた時、達成感ではなく空虚を覚えるように設計されているのだろうか。だとしたら、あまりに救いがない。隣のベッドでは、引野さんがまだ蒼白な顔で眠りに就いている。彼女の精神的消耗は、僕という素人が立てた杜撰な予測を、遥かに上回っていた。
そこへ、橘さんが厳しい表情で入室してきた。彼の背後には、ノートパソコンを聖体のように抱えた相葉がいる。その登場の仕方は、まるでこれから死刑宣告でも下すかのようだ。もっとも、僕の人生など、とうの昔に死刑宣告を受けているようなものだが。
「……話がある。昨夜、相葉君が江島の資金ルートを完全に解明した。金の流れは、やはりバチカンへ繋がっている」
橘さんの言葉に、僕は緩慢に身を起こした。予想はしていた。だが、予想が事実として突きつけられると、事態の根の深さに眩暈がする。世界は僕が思っているよりもずっと、悪意と陰謀で満ち満ちているらしい。
まさにその時だった。橘さんの持つ特殊通信機が、けたたましい警告音を奏でた。外交ルートを通じた、最高レベルの公式通信。モニターに映し出されたのは、聖槍騎士団の荘厳な紋章だった。
「……やはり、来たか」
橘さんは、全てを覚悟した殉教者のように呟くと、通信に応答した。メインモニターに映し出されたのは、深紅の法衣を纏った男。メガフロートで共闘したアルビレオ総長、その人であった。
『ハシュマル機関極東支部長代理、橘征四郎。そして、『鍵』たる少年、神代那縁。並びに『聖杯の器』、引野知子。我が騎士団より、貴殿らに正式な協力要請を申し入れる。これは、滅びの運命に抗うための――聖都からの『召喚状』だ』
その言葉は、協力要請というにはあまりに一方的で、拒絶という選択肢を初めから排除した、挑戦状の響きを伴っていた。
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