第4話 保護という名の鳥籠

 世界から色彩が失せて、どれほどの時が経っただろうか。僕の日常は、もはやテレビの中のワイドショーや、ネットニュースのコメント欄で消費される、空虚な記号の羅列でしかなくなっていた。偶像とは、言い得て妙だ。人々は、僕という存在に、自分たちの都合の良い願望や恐怖を投影し、好き勝手に祈り、好き勝手に石を投げる。その喧騒の中で、僕自身の輪郭は、日に日に不明瞭になっていく。けだし、自己とは他者との関係性においてのみ規定される相対的な概念に過ぎぬ、という言説は真理の一端を突いているのかもしれない。


 仮設キャンパスの屋上は、僕たち三人が唯一、偽りの平穏を享受できる場所となりつつあった。金網の向こうには、再開発の槌音が響く、かつて僕たちの大学があった更地が広がっている。


「……駄目だ、こりゃ。俺が偽情報だって証明した遺族インタビューのディープフェイク動画を、今度は『ハシュマル機関による隠蔽工作の証拠』とか言って拡散してやがる。江島の野郎、完全に世論を掌握しやがった」


 相葉がノートパソコンの画面を叩きつけるように閉じて悪態をついた。彼が立ち上げたカウンターサイト「真実の目」は、江島が率いる「人間の鎖」の組織的な情報操作によって、今や陰謀論者の巣窟という不名誉なレッテルを貼られ、その信憑性を失いつつある。異能を持たない彼が、僕たちのために、たった一人でサイバー空間という名の無血の戦場で戦ってくれている。その事実が、僕の胸を締め付けた。僕という存在が、彼を終わりのない戦いに巻き込んでいるのだ。


「相葉君、無理しないで」


 引野さんが、彼の肩にそっと手を置く。その声の優しさが、逆に痛々しく響いた。


 その時だった。屋上へと続く重い鉄の扉が、ぎぃ、と軋んだ音を立てて開いた。そこに立っていたのは、いつもの着古したスーツに身を包んだ、橘さんの姿だった。彼の背後には、数名の武装した機関員が控え、その場に不釣り合いな、しかし慣れ親しんだ緊張感が漂う。


「話がある。少し時間をくれ」


 橘さんの声は、普段以上に硬質的だった。僕たちは無言で頷き、彼の次の言葉を待つ。


「状況は、お前たちが考えている以上に悪い。江島の扇動は、単なる誹謗中傷の域を超え、具体的な物理的脅威となりつつある。そして……問題はそれだけではない」


 橘さんは、一度言葉を切ると、射抜くような視線を引野さんへと向けた。


「引野君、君の力を危険視し、あるいは利用しようと画策する勢力が複数、水面下で動き出している。その中には、新興カルト教団『生命の揺り籠』といった、過激な連中も含まれている。我々が掴んだ情報では、彼らは既に君の通学路、行動パターンを完全に割り出している。もはや時間の問題だ。これ以上、君たちを公の場に置いておくのは危険だと判断した」


 生命の揺り籠。その耳慣れない、しかし不吉な響きを持つ単語に、僕たちは息を呑む。


「……機関が管理する研究施設へ移ってもらう。表向きは、君たちの能力の精密検査と保護が目的だ。もちろん、強制ではない。だが、これが現状、最も安全な選択肢だと、私は考えている」


 保護、という名の鳥籠。僕は、橘さんの提案に、即座に生理的な反発を覚えた。それは、僕が最も恐れていた事態――機関による完全な管理下に置かれ、全ての自由を剥奪されること――そのものだったからだ。



 橘さんが去った後、屋上には重い沈黙が流れた。相葉は何も言えず、ただ唇を噛み締めている。


「僕は行かない」


 最初に口を開いたのは僕だった。我ながら、なんと思考の浅い、感情的な言葉だろうか。


「機関の施設に入れば、もう二度と、普通の生活には戻れない。それに……僕の力が、また誰かを傷つけるかもしれない。閉鎖された空間で、もし暴走したら……」


 過去のトラウマが、黒いタールとなって心を覆い尽くす。あの、手のひらに残る、温かく柔らかだったはずの感触。それが、僕の制御不能な力によって、冷たく砕けていく悪夢。


「僕がいるから、引野さんまで危険な目に遭う。災厄の元凶は僕だ……」


 とめどなく溢れ出す自嘲の言葉。僕という存在そのものが、友人たちにとってのリスクでしかない。その絶望的な事実が、僕の精神を内側から少しずつ蝕んでいく。

 黙って聞いていた引野さんが僕の前に立った。その瞳は、夕陽を受けて、琥珀色に揺れていた。


「違うよ、神代君」


 彼女の声は、どこまでも澄んでいた。


「あなたの力が危険なのは、誰よりも私が知ってる。でも、その力は、あなたが一番傷つけたくないと思っている私や相葉君を、この手で守ってくれた力でもあるの。何度も言わせないで。自分に甘えないで。私はあのときのあなたの手を信じてる。だから――」


 彼女は、僕の目の前に立った。


「怖いのは、あなただけじゃない。私も、怖いよ。でも、一人で恐怖に立ち向かう必要なんてない。私たちが、そばにいる。あなたの力が暴走しそうになったら、私の力で、きっと……」


 僕の心の最も固く凍てついた部分を、その言葉がゆっくりと溶かしていく。そうだ。僕は一人ではなかった。この単純な事実から、僕は今まで目を逸らし続けてきたのだ。



 同時刻、永田町の官邸の一室。内閣官房長官、三枝信輝は、警察庁警備局長の郷田からの極秘報告を受けていた。


「……江島譲二の背後には、やはりハシュマル機関の長老会が。資金の流れも確認しました。連中は、江島を神輿に担ぎ、世論を煽ることで、橘の失脚と、機関の実権掌握を狙っているものと思われます」

「だろうな」


 三枝は、感情の読めない表情で頷く。


「泳がせておけ、郷田君。膿は、一度出し切らねばならん。江島の扇動が大規模な暴動に発展すれば、それは社会という身体に溜まった膿を炙り出す、良き機会となる。我々は、それを根こそぎ外科手術で切除するだけだ。公安は、その準備だけを、滞りなく進めておけ」

「……しかし、それでは一般市民に多大な犠牲が」

「秩序の回復には、時に痛みが伴うものだよ、郷田君」


 三枝の瞳には、冷徹な光が宿っていた。彼の見据える先にあるのは、混乱の収拾ではない。混乱を利用した、より大きな権力の一極集中。高度な政治的粛清の始まりに他ならなかった。



 決意と共に、僕は顔を上げた。

 逃げたら結局何も守れない。それどころか、僕が目を逸らしている間に、引野さんや相葉が傷ついていく。僕の罪は消えない。だが、これ以上、僕の弱さが新たな罪を生むことだけは許されない。この力と共に在るという十字架を、今こそ背負うべき時なのだ。守るために。そして、償うために。


「……ありがとう、引野さん」


 それは決意を宿した言葉だった。守られる存在であることをやめ、自らの意志で、鳥籠に入ることを選ぶ。それは、誰かに強いられた選択ではない。大切なものを守るため、そして、自分自身を取り戻すための、僕自身の戦いの始まりでもあった。

 僕はスマートフォンを取り出し、橘さんの番号を呼び出す。


「橘さん、神代です……施設への移送、受け入れます。引野さんと相葉も一緒に、ですよね」


 受話器の向こうで、橘さんが狼狽えるように短く息を呑む気配がした。

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