第6話 迫る厄災、告白の代償

 ハシュマル機関極東支部の医療セクションは、息詰まるほどの緊張感に支配されていた。引野知子という、あまりにも大きな存在を巡り、アルビレオ率いる聖槍騎士団と、橘さん率いるハシュマル機関が、互いに一歩も引かぬまま睨み合っている。その、張り詰めた均衡が破られたのは、本当に、一瞬の出来事だった。


「なにっ!?」


 橘さんが、歴戦の猛者とは思えぬ驚愕の声を上げる。アルビレオもまた、その眉間に深い皺を刻み、警戒の色を濃くして剣を構え直した。彼らの視線の先――医療セクションを内部の廊下と隔てる、分厚い強化ガラスに、何の兆候もなく蜘蛛の巣状の亀裂が走り、次の瞬間、凄まじい破壊音と共に内側へと弾け飛んだのだ。


 通路の奥から、何かが「歩いてきた」のではない。通路の空間そのものが、まるで黒いインクを染み込ませたように変質し、そこから五体の、人型の「何か」が滲み出すようにして現れた。奴らの出現に伴う空間の歪みが、あの強化ガラスを内側から圧壊させたのだ。

 それは、黒い霧というより、闇そのものを固めて成形したような、冒涜的なまでの存在だった。のっぺりとした頭部に、顔というべき器官はない。しかし、その身に纏う、あらゆる光を吸収する外套の下から伸びる、異常に長い四肢の先端は、剃刀の如き鋭利な鉤爪となっている。渋谷で遭遇したヴァルガのような圧倒的な破壊のオーラはない。その代わり、奴らからは、獲物の精神に直接忍び寄り、その魂を内側から喰い破る、陰湿で、粘着質な殺意が放たれていた。疑いようもなく「観測者」の配下、それも暗殺に特化した個体群。


 奴らは、ハシュマル機関と聖槍騎士団という、二つの巨大組織の対立が生み出した、ほんの僅かな、しかし致命的な隙を、あまりにも正確に突いてきた。この瞬間、この場所は、三者の、決して相容れない思惑が交錯する、濃密な殺気に満ちた、混沌の坩堝と化した。


「アルビレオ! 貴様、この状況を企てたのか!」


 橘さんの、怒りに任せた声が響くが、アルビレオは動じない。彼の視線は、ただ一点、引野さんにのみ注がれている。その瞳に宿るのは、執着か、それとも――。


 五体のうち三体の影が、引野さん目掛けて、音もなく、滑るように襲いかかる。ハシュマル機関の隊員が、最新鋭の銃器で応戦するも、物理攻撃がまるで通用しない。弾丸は、影を、実体のない蜃気楼を撃つかの如く、虚しくすり抜けていく。聖槍騎士団の騎士たちもまた、聖印を刻んだ特殊な武器で迎撃を試みるが、結果は同じだった。


「ちいっ、厄介な!」


 橘さんが、忌々しげに舌打ちする。僕も念動力サイコキネシスで引野さんを守ろうとするが、影の動きは変幻自在で、捉えどころがまるでない。互いが互いを牽制し合い、有効な連携が取れないまま、防戦一方という、あまりにも絶望的な状況に追い込まれていく。


 その時、相葉が叫んだ。


「那縁! 引野さん! こいつら、精神攻撃も仕掛けてきてる! 頭の中に直接、変なイメージが……!」


 彼は、その言葉を証明するかのように、壁際のコンソールに駆け寄り、自身のノートパソコンを、常人には到底不可能な速度で接続していた。機関の、鉄壁のはずのセキュリティシステムに、いとも容易くアクセスし、敵の位置情報や、あるいはその脆弱性を探ろうとしているのだ。


「この施設のシステムから、あいつらの情報を……くそっ、ガードが固すぎやがる! でも、何か……何かあるはずだ!」


 彼の言葉通り、僕の頭にも、不快なノイズと共に、最も見たくない過去の記憶や、根源的な恐怖を煽る幻覚が、洪水のように流れ込んできた。集中力が、まるで砂の城のように、いとも容易く削がれていく。念動力サイコキネシスの精密な制御が、乱れ始めていた。

 残る二体の影のうち一体が、ハッキングを試みる相葉の危険性を、その原始的な知性で察知したのだろう。彼の背後に、音もなく、文字通り影のように回り込み、精神を直接破壊する、悪辣な黒い波動を放った。


「ぐあああっ!」


 相葉が、短い、しかし聞く者の内臓を抉るような悲鳴を上げ、コンソールに突っ伏す。その顔は恐怖と苦痛に醜く歪み、意思の制御を断ち切られた全身が、小刻みに痙攣を始めた。


「相葉君っ!」


 引野さんの悲痛な叫び。その瞬間、彼女の瞳から、堰を切ったように、純金の如き光が迸った。それは、僕が以前に見た彼女のヒーリング能力とは、もはや比較することすらおこがましいほどに強く、神々しい輝きを放っていた。黄金色の光は、ドーム状のフィールドとなって、引野さんと倒れた相葉を優しく包み込み、黒い影の、非情な追撃を完全に防いだ。フィールド内では、相葉の苦悶の表情が少しずつ和らぎ、彼を苛んでいた黒い瘴気が、朝日を浴びた夜霧のように霧散していく。


 それだけではなかった。黄金色の光は、周囲に満ちていた、あらゆる異能の波動――黒い影の邪悪なエネルギー、僕の未熟な念動力サイコキネシス、そして聖槍騎士団の放つ聖なる力――それら全てを、一時的に、しかし完全に調和させ、中和していく。敵の動きが、明らかに鈍る。僕や、敵対していたはずの騎士たちの消耗が、急速に軽減されるのを感じる。これが、引野知子の覚醒した力……!


 しかし、その、奇跡としか呼びようのない強大な力の反動は、引野さん自身にも、あまりにも重くのしかかっていた。彼女の顔から、急速に血の気が失せていく。フィールドを維持したまま、彼女はその場に、力なく膝をついた。


「引野さん!」


 僕が駆け寄ろうとした、まさにその瞬間だった。「観測者」の影は、この状況ですら、僕たちを弄ぶことをやめなかった。医療セクションの大型モニターが、突如として砂嵐に変わり、次いで、世界各地の、この世の終わりを告げるかのような惨状を、次々と映し出した。パリではエッフェル塔が、まるで存在しなかったかのように消失し、ニューヨークでは自由の女神が血の涙を流し、ロンドンではビッグベンが、時を嘲笑うかのように逆回転を始めている。真夏の東京湾岸エリアでは、局地的な吹雪が発生し、レインボーブリッジが巨大な氷柱と化していた。地球のシステムダウン。原因不明の集団意識障害。ハシュマル機関本部は完全に機能を停止した。


「『観測者』が……本格的に、動き出したというのか……」


 橘さんが、絶望的な表情で呟く。その時、アルビレオが、僕と橘さんに向かって、静かに、しかし、有無を言わさぬ重みのある声で告げた。


「もはや猶予はない。ハシュマル機関、橘。一時休戦としよう。あのお方――引野知子と、「鍵」たる少年――神代那縁を守り、「観測者」を討つ。それが、今、我々が為すべき唯一のことだ」

「……異論はない」


 橘さんが、苦々しくも即座に同意した、その時だった。


「橘さん! 緊急報告です!」


 通信オペレーターの一人が、切羽詰まった声で叫んだ。


「世界規模で発生しているシステム障害、及び異常現象のエネルギーパターンを追跡した結果、全ての発生源が、ただ一つの座標に収束しています! 東京湾上、メガフロートです! 湾岸の異常気象も、『観測者』が展開しているエネルギーフィールドの影響かと!」


 その報告が、この混沌とした状況における、唯一の、そして絶望的な道標となった。橘さんは、オペレーターの報告を聞き終えると、決然とした表情で僕たちに向き直った。


「聞いたな! 神代君、引野さん、そして相葉君! 君たちを中核とした特別チームを再編成する! 目標は「観測者」の活動拠点、東京湾メガフロート! これより大至急、移動を開始する!」


 橘さんの声が響き渡る。その時すでに「観測者」の影は全てアルビレオによって斬り伏せられていた。

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