第25話【対面】——返さない女
「こんにちは。お世話になります」
グレーのパンツスーツ姿の生田清香が、御舩葵のマンションの一室を訪れた。
季節は初夏。
外では蝉が鳴き、うだるような暑さだったが、室内は冷房が効きすぎるほど冷えきっていた。
葵は薄手のパーカーを羽織り、グレーのショートパンツの下から、膝丈までの黒いスパッツを露出した格好で現れた。
その下には例の“加圧インナー”を着ているのだろう。布地の輪郭がうっすらとパーカーの下に浮かんでいた。
簡単な挨拶のあと、生田はインナーの使用状況を確認し始めた。
「今日は突然ですみません。実は私もこのインナーを試着している社内モニターの一人なんです。」
そう言って、生田は持参した袋からインナーを取り出し、テーブルにそっと置いた。
「えっ、そうなんですね……」
「はい。私も社内モニターとして、このインナーの良さは知っているつもりです。あと、長時間使用が難しいことも」
それを聞いた葵は、初めて会った“仲間”のようで、どこか安心したように目を細めた。
既にモニターアンケートの提出義務は1ヶ月以上前に終了しており、当然、葵の使用状況は社内データに反映されていない。
だがその“実態”は、生田にとって予想をはるかに超えるものだった。
「……さっき長時間使用の話出ましたけど、あたしは結構平気なんです」
「…と、いうと、例えば10時間くらいですか?」
アンケートでは「着用時間:☑6時間以上」——
「いえ1日中に近いです。平均すると大体15時間くらい。たまに、寝るときもそのまま着てます」
「えっ…、毎日ですか?」
生田は目を丸くして尋ねる。
葵は、赤裸々に実態を語った。
「はい。ほぼ毎日です。洗って、乾かして、すぐ着ます。あっ…ちょっと恥ずかしいですけど…、深夜に洗濯機を回すとクレームが来たみたいで、洗わずにスプレーだけして使用することもあります。習慣みたいなものです」
生田は絶句しかけた。
(推奨時間をはるかに超えてる……本来はそれだけでも危険だ…)
さらに葵は続けた。
「汗で、締め付けがすごく強くなるのは……もう、間違いないと思います。最初は偶然かと思ったけど、もう何回もあるんです」
生田はその言葉を慎重に
まず頭の中で事実を再確認する。
——社内モニターを含む他の104人からは、そうした報告は一切ない。
つまりこれは、葵にだけ起こっている現象──。
「それって……もしかして、“自分の汗”にだけ反応してるってこと?」
「他の方からの報告が全くない状況なので、そうとしか…」
「……ただの汗じゃなくて、あたしの汗だけ……? なんで……?」
葵は戸惑いながらも、どこか嬉しそうだった。
まるで、自分が“特別”な存在であると証明されたかのように。
生田は何も言わなかった。
「黒い布」の伝承が脳裏をかすめたが、それを口にすることはできなかった。
いくら真実味があっても、いまそれを話せば逆効果になると分かっていたからだ。
「そういえば着た後に1日経ってもインナーの跡が全く消えないんです。皆さんそうなんですか?」
「えっ!?」
生田は一瞬戸惑いを隠せなかった。が、すぐに冷静を装い、切り返す。
「いえ、おそらく長時間使用が原因かと…他の方の使用は短時間なので」
(いくらなんでも…1日経っても跡が消えないなんておかしい!)
生田は内心戦慄していた。
だが、冷静を装いながら、事実確認を進めることにした。
「——状況を整理しましょう」
葵は黙って頷く。その目はまだ穏やかだった。
「モニターは社内外含め105名おられます。そのうち御舩さんのみに現れている症状がある。考えられる点は、長時間かつ継続的な使用によるもの、次に、御舩さんにお渡ししたインナーのみ、他の方と違う性質のものが混入していた可能性、最後に、これは可能性が低いかもしれませんが、御舩さんが特異体質である可能性です」
一呼吸おいて生田は切り出した。
「御舩さん……すみません、やはりそのインナーを、お預かりできませんか?」
「…?」
葵は一瞬戸惑った。生田が続ける。
「御舩さんだけの症状……、汗で収縮する、となるとそのインナー自体に問題がある可能性が否定できません。念のため社内で調査できればと思いまして……どうでしょうか?」
方便としてそう切り出すと、葵の目つきが一変した。
「それは……絶対にイヤ…!」
はっきりと、拒絶の言葉が返ってきた。
普段は物静かな印象の葵が、感情が高ぶったのか、方言交じりのイントネーションでわずかに声を荒げる。
その瞬間、生田は言葉を失った。
(……怒ってる?)
先ほどまでのおだやかな若い女性の目ではなかった。まるで何かに取り憑かれた者のような、そんな目をしていた。
一拍置いて、葵はやや言葉を和らげた。
「……ごめんなさい。でも、それだけはイヤなんです。
これ、もうあたしの身体の一部みたいなもんなんです」
その語尾には、理屈ではなく“本能”が宿っていた。
その勢いにたじろぐ生田だったが、同時に”黒い布の恐ろしい伝承”が頭をよぎる。
——黒い布をまとい、体を雑巾のように捩じられて死んでいった遊女や姫の話。
「御舩さん…お願いです。命に…、命に関わるかもしれません…!」
生田は深々と頭を下げた。心からの嘆願だった。
「…やめてください。あたしからもお願いです…。大丈夫ですからどうかそのままで…」
葵がわずかに涙声になっているのを生田は聞き逃さなかった。
(このインナーは…彼女が言うように、すでに体の一部のようなものかもしれない…)
生田は“越えてはならない一線”を見た気がした。
「……分かりました。無理を言ってすみません」
形だけ再び頭を下げ、生田は早々に辞去した。
ドアが閉まると、冷房の風が頬を撫でた。
自動ドアのないマンションの廊下は静かすぎて、生田の足音だけが響いた。
唇を噛みしめながら、駅へと向かう。
彼女は思った。
——御舩葵は、“特別”すぎる。
そのインナーを脱がせるには、もう、言葉では届かない。
けれどもし、あの“伝承”が事実なら──
彼女の内側から少しずつ、命そのものを絞り取っていく何かが、もう動き始めているのかもしれない。
時間はもう、残されていない気がした。
* * *
——数日前
【未来装研・開発ラボ】
『ちょっと!連絡してよね!待ってるから』
スマホに表示された娘・直美からの催促メールに、洪野凌一は渋柿でも噛むような顔をして電話をかけた。
「……すまんな。どうした、気になることがあるって?」
「や〜っとかかってきた!もう!遅いよ! 生田さんにも連絡したからね!」
「……そうか。で、加圧インナーの件か?」
「うん。後輩が、“汗をかくと締め付けが強くなる”って言っててさ、普通じゃない感じだったの。だから、念のため聞いとこうと思って」
(まさか……な…)
電話の向こうで凌一は、無意識に口を閉ざした。
冷たい汗が、うなじをひと筋伝って落ちる。
「そうか。他のモニターからは、そういう報告は一切出ていないが、多少個人差はある。気のせいやと思うが」
「ふーん……生田さんも同じようなこと言ってたよ。……ま、なんかわかったらまた教えてよね!」
電話嫌いの父らしい、素っ気ないやり取り。
けれども──最後に聞こえた、わずかに震えた声の色に、直美は言い知れぬ違和感を覚えた。
そしてその違和感の正体は、まだ彼女自身、気づいていなかった。
________________________________________
黒い布──
それは、洪野の祖父・太一がかつて禁則地で発見した、“
だが、その太一が最後に示したもう一つの布──
「冷水に数年漬けた黒布」の存在が、ひとつの道を示していた。
沢の冷水に数年間浸けた布は、色味をやや落とし、凶悪な締め付けを失う。
それでも伸縮性は保たれ、有害性は限りなく低くなる。いわば“中立の布”。
その性質に着目し、未来装研では再現を目指した。
1年前の実験で、黒布を乾燥高温下にさらしても、落ち着いた繊維構造を保っていた。
一方、数日間冷水に漬けていた黒い布は、色がわずかにくすみ、紫がかった色に近い色となり、わずかな歪みが生じていた。
伝承の通り、”黒い布”は冷たい環境に弱いという仮説を元にしていたのだった。
現代科学で、数年分の“冷水の力”を数時間で──
「超水冷封じ」
水を超臨界状態(374℃・22MPa以上)にし、黒布を曝す。
有機物の活性構造を破壊した直後に急冷することで、分子構造を安定化させる。
皮膚病由来の異常タンパク質や酵素は、これにより無毒化される。
「……モニター試供品には、間に合いませんでしたが──これなら長時間も使用できます」
枚岡が自信を込めて言う。
「そうやな……だが、モニター試供品は念のため回収を急がせてくれ。根拠はないが、嫌な予感がする」
「了解です。大半は回収済みですが……あと数名、残っています。」
凌一は返事をしなかった。
だが、胸の奥で、ほんのわずかなひとつの可能性が小さく芽を出していた。
──既に、遅すぎたのかもしれない。
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