第6話【妖艶】——衣服の形をした”拘束具”
高揚の余韻に浸る中、葵はふと冷静になり、直美へモニター募集当選の報告を失念していたことを思い出した。
LINEで報告を済ませ、ほどなくして直美から返信があった。
『まじか…まさか本当に当たるとはね!まぁでも、葵にはちょうどよかったかも。ちゃんと使ってレポしなよ?』
一安心した後、葵はインナーの説明書を詳しく読んでみることにした。
加圧インナーSI(Shape Innovator) ―姿勢と体型の未来を創る、新世代加圧ウェア―
【本製品について】 加圧インナーSI(Shape Innovator)は、株式会社未来装研が開発した最新型の体型・姿勢矯正ウェアです。
特殊合成繊維を用いた一体型構造により、着用するだけで身体ラインを美しく整えるサポートを行います。現在、本製品はモニター限定試験配布となっており、ご着用者様の貴重なご意見を今後の製品開発に反映させてまいります。
【製品構造】 本製品は、タンクトップ型の上半身部とスパッツ型の下半身部が一体化した“ワンピース”構造となっており、以下の特性を備えています。
• 高密度・高伸縮の「形状矯正繊維」を採用
• 表面はなめらかで光沢のある質感、肌に心地よく密着
• 着脱ファスナー等なし(強力な伸縮性により着脱可能)
• クロッチ部分には排尿用の開口部(外見上目立たない二重構造)を内蔵
【主な効果】 着用によって以下の効果が期待されます(個人差があります)
• 姿勢矯正:背筋を自然に伸ばすサポート機能
• 体幹補助:インナー全体が腹部・背部を包み込み、体幹筋に働きかける
• スタイル補正:ヒップアップ・ウエストライン形成・バストアップ
• 動作時サポート:下半身の筋肉に適度な圧力を与え、動きを安定化
【ご使用上の注意】 • 初めての着用時は、汗や湿気によって着脱が難しい場合があります。 →乾いた状態でのご使用を推奨いたします。
• クロッチ部には開口機構を備えていますが、水着と同様、排尿時は脱衣を推奨します。
• 排便時は必ず脱衣してください。
• 着用中に不快感や皮膚の異常を感じた場合は、ただちに使用を中止してください。
• 長時間の連続使用は避けてください(1回の着用目安:2~4時間)。
• 洗濯は中性洗剤を使用し、30℃以下の水で手洗いしてください。乾燥機の使用はお控えください。
【留意事項】 本製品は、体幹筋に対して強い加圧効果を与える設計となっているため、慣れないうちは短時間の着用でも筋肉痛を感じることがあります。これは製品の効果によるものであり、異常ではありません。無理のない範囲で段階的に着用時間を調整してください。
——不意に不安がよぎった。
…もし、脱ぎたい時に脱げなかったら?
急に青ざめる。まずはトイレ。
説明書を読み返す。 インナーのクロッチ部分に設けられた開口部の記載。
あった。緊急時に脱げないことを想定して、小便用だけ緊急措置用で用意されていた。
目立たず、二重構造になっていて、小便の用は足せるよう工夫されている。
指先でそっとクロッチの縫い目をなぞる。
外側からは目立たないが、中に確かに“別の層”が感じ取れる。
柔らかく、少しだけ沈むような感触。
…ちゃんと、開いてくれるのか。
「…これか…うん、大丈夫……」
使用者の意図を想定した至れり尽くせりの構造。
深呼吸し、トイレを無事済ませると、少しだけ安心した。
――着られたんだから、脱げるはず。大の方は…今は考えないようにしよう。
葵はそう自分に言い聞かせる。
やがてインナーは身体に馴染み、肌との摩擦も心地よく変化していた。
――これ……好きかも。
そう思った瞬間、自分でも気づかない笑みが浮かんでいた。
葵は部屋の隅に置いた姿鏡に向かった。
ゆっくりと一歩踏み出してみる。
床に吸い付くような感触。かかとから背筋へ、一本の芯が通ったようなバランスの安定を感じる。
――あれ?
そこにいるのは、いつもの“自分”ではなかった。
身長158cmのはずの葵が、まるで160cm以上あるかのように見える。
姿勢の矯正によって得られた印象の変化。
それは単なる錯覚ではなかった。
事実として、肩が後ろに引かれ、頭の位置が高くなり、胸が張っている。
“
普段使わない表現。
——そんな言葉が脳裏をよぎる。普段使うことのない語彙。
それでも、その場にぴたりとはまるように感じられた。
「……女王様みたいやん……ふふっ」
黒の艶が室内の光を鋭く跳ね返す。
その姿は、まるで他人のようでありながら、確かに自分だった。背筋を伸ばし、鏡の中の葵はゆっくりと微笑んでいた。
その硬質な輝きに、いつもの自分が包まれているとは思えなかった。
ぼそっと漏れた独白に、思わず笑いがこみ上げた。
中学か高校の頃、深夜に見たテレビ番組に登場した、いわゆる“SMの女王様”。
艶のある黒い衣装に、背筋の通った立ち姿。
自信と支配力を象徴するようなその姿が、ふいに脳裏によみがえった。
――でも、あのとき画面の中で見た彼女と、自分の中にいま感じている“軸”のような感覚は、確かに似ていた。
いまのこれは“羞恥”ではなかった。
むしろ、ある種の“報酬”に近い感覚。普段の自分では得られない、自信と確信。そんなものを、葵はインナーに着せられていた。
これは…ハマる。葵は予感していた。
「もっと…強くてもいいかも…」
そのまま、キッチンへ向かい、エプロンをインナーの上から着ける。
朝ご飯の準備を始めながらも、葵の耳にはずっと、 ギュッ……シュッ……ギュギュッ……。
腕を振るたび、足を動かすたびに、インナーの生地が皮膚に沿って微かに軋む音が心地よく耳に残る。
それがまるで、自分の呼吸のように感じられた。
気づけば、フライパンを握る手にも力が入りすぎていた。
身体が、求めるように動いてしまう。
「今日の私は……ちょっと違うんやけん」
インナーが、心と体を一体にしてくれている――そんな気がした。
起床からすでに二時間。掃除も洗濯も、すべての動作が“誰かに導かれている”ようにスムーズだった。
前屈みになれば背中に圧が走り、肩を回せば軋む音が心地よく響いた。
確かに動きはぎこちない。
特に前屈みになる動作には制限を感じる。
それでも、筋肉の奥に芯が通ったような感覚があり、身体が“制御されている”あるいは“支えられている”という実感があった。
「……なんか……すごい……支配されてる感じ…」
汗が
漆黒のインナーは、時間が経ってもぴたりと身体に張り付き、皺ひとつ寄らない。
――どうして、こんなに肌に馴染むの?
思い出したのは、モニター募集ページの説明文だった。
『次世代形状記憶繊維ならぬ“形状矯正繊維”を採用』
という文言。
製品名“Shape Innovator”、略してSI。今なら納得できる。
いや、納得を通り越して感心すら覚えていた。
掃除機をかけながら、大きく背伸びして肩を回す。インナーが生地の擦れ音を立てるたび、身体の各部位が再確認されていくようだった。特に、肩甲骨まわりと腹部の圧迫感が心地よく、背筋が伸びるたびに自分が“新しく整えられていく”感覚に酔っていく。
とはいえ、ふと現実に引き戻される瞬間もあった。
「……脱ごうかな」
そろそろ、身体も熱を持ってきていた。
“加圧”されているだけに、運動量がいつもより多い気がする。
額から汗が
その時——
ギシ…ミシ…
インナーからわずかに音がした。
この時は違和感など感じなかった。
——午前中いっぱいで、着用は約一時間半。初回にしては充分だ。
葵は肩紐に指をかけ、脱ごうとした。
葵は深く息を吸って肩をすくめると、片手でそっと肩紐に触れた。
インナーの肩紐は手のひらの半分ほどの幅ほどあり、それがギュッと肩に食い込んでいた。
肩紐を掴むことはできず、両手で脇方向にずらそうとした。
汗で濡れた肌に吸い付いたような生地が、なかなか剥がれない。
「脱げない…!?」
一度で外れるとは思っていない。片方ずつ、ゆっくりと──数ミリずつ──。
まるで肌の一部が剥がされていくような、そんな錯覚さえ覚える。
「まさか…一生脱げないなんてこと…なかね…!?」
一瞬背筋がぞわっとする。
裁ちばさみをチラッと見たが、もう一度脱衣に挑戦する。
「ん…くっ…固い…!」
ズルッ…
やっと左肩が抜けた時、まるで肺の奥まで空気が入った気がした。
次に右肩。
肩紐がぴったりと肌に食い込んでいたが、左肩が外れていたので「ペリッ」という音とともに両肩の肩紐が外れた。
次は腰の部分で引っかかる。
「う、うそでしょ……」
強烈に絞り込まれたウエストが葵の張りのあるヒップとのかなりの高低差を作りだしていた。
焦る。
全体を下に引き下ろそうとする。だが、インナーは容易に伸びない。やはり腰がキュッとくびれていて、抵抗してくるようにすら感じられる。
――これは“代償”。
そう、美しさの報酬を受け取った者が払うべき、当然の代償。
葵はそう感じた。
冷静になろうと、いったん深呼吸をし、ゆっくりと少しずつ生地を引き下ろす。
小刻みに腰を揺らして、徐々に脱げる範囲を広げていく。ヒップを通過した後は太腿。
布のテープを剝がすような音を奏でながら、10分ほどかけて、ようやく解放された。
「……ふう」
まるで、衣服の形をした拘束具だった。
インナーが締め付けた跡が身体にくっきりと残っていた。 だが嫌な感じはしなかった。
この時は。
脱いだインナーは、手のひらで持つと冷たく感じた。
汗をたっぷり吸っているのに、外側には湿り気を感じさせない。
ただ、ダンベルのように感じるその重さは相変わらずだった。
しばらく裸のまま、身体を風にさらしながら座る。体中がじんじんと疼く。解放された身体が逆に不安定に思えた。
だが、体に残るインナーの締め付けの痕跡が逆に微笑ましかった。
「午後は、可愛い服……着てみようかな」
あのとき諦めたウエストライン。
いまの自分なら、もう一度試してみたくなった。
普段の自分なら選ばないような、少しだけ“女の子らしい”服。
でも今日は、なんとなく着てみたくなった。
少し迷いつつ、ワードローブを開け、数年前に買ってからずっとクローゼットの奥にしまってあったジャンパースカートを取り出した。
クリーム色のブラウスと合わせて、鏡の前で自分を確認する。
……こんな服、似合うと思ったことなかったのに。 だけど今日は、なんとなく選んでもいい気がした。
「……うん、悪くない」
素直にそう思えた。
スカートのウエストが少し緩く感じたのは、インナーの余韻が残っている証拠か。
出かける直前、リビングのテレビに目を向けると、「整形の最前線」特集が流れていた。
顔の造形を変えて人生を変えようとする人々のインタビュー。
「整形……じゃないもんね。まあ、近いけど……」
呟いた自分の声に苦笑する。
確かに、肉体を変えるという意味では似ている。
だが、葵にとって加圧インナーは“手術”ではなく“儀式”だった。
少しずつ、自分が自分でなくなっていくような、それでいて確かに“私”に近づいているような不思議な感覚。
――刃ではなく、布で変わる。そんな方法が、自分にはちょうどよかった。
スマホを手に取り、直美にLINEを送る。
『このインナーすごいっちゃ!めっちゃ効果ありそう♡』
数分後、既読マークの後に返信が届いた。
『そりゃ良かった、でもハマりすぎないようにね(笑)』
直美の返信は短文ながら気遣いが伺える。
スマホを伏せて、深く息をついた。 少しだけ、自分のことが好きになれた気がした。
新しい靴を履いて、部屋を出た。 服装を変えるだけで気分が晴れやかになる。 今日はそんな気分のまま外に出ることが、なによりの報酬だった。
まだまだ理想の自分には遠い。 だけど、少しずつ近づいている。
そんな確かな手応えが、インナーの締め付けよりも強く、心を抱きしめていた。
インナーが締め付けた跡は、夜になっても消えなかった。
触れると、うっすら熱を持っていた。
——まるで、まだ“何か”がそこに残っているかのように。
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