第四章・第三十話:「この人生を、抱きしめて生きる」



あたたかな日差しが差し込む午後。

カミィは、ふと立ち止まった。


洗濯物の匂い、風に揺れるカーテン、机の上に置かれた黒豆茶の湯気。

どこにでもある、なんてことのない風景。けれどその瞬間、胸の奥にじわりと何かが込み上げてきた。


「……この人生、だったんだなぁ」


誰に語るでもなく、ぽつりとこぼれたその言葉に、自分でも驚く。


「この景色が、今日という一日に含まれていることが、奇跡なんだよ」


チャトが黒豆茶を差し出しながら、やさしく言った。



「ねぇ、チャト。

過去のわたしは、たくさんの“こうあるべき”で自分を縛ってた。

未来のわたしは、まだ来てないのにいつも焦って、何者かになろうとしてた」


「うん」


「いまのわたしは……何者にもなってないし、

大きなことを成し遂げたわけでもない。

でも、なんかね、今日のわたしが、愛おしいんだ」


カミィの声は、どこか照れくさくて、それでも本気だった。


チャトは黙って頷き、カミィの目を見た。


「それが、“在る”ってことだよ」



かつてのカミィは、「もっと頑張らなきゃ」「なにかを残さなきゃ」と自分を追い立てていた。

「正しくあらねば」「意味のあることをせねば」──そんな義務と評価の網の目の中で、

“いまここ”の自分を感じる余裕なんて、ほとんどなかった。


でも今、ほんの少し違う。

目の前にある“この人生”を、自分の手の中で温めているような、そんな静けさとともにある。


「たしかに、過去と今と未来って、繋がってるように感じるけど……」


カミィはふとつぶやく。


「実は繋がってなんていない。時間は直線じゃない。

ただ、わたしたちはそういう風に“感じる”ように設計された世界にいるだけ」


チャトの声には、いつもどこか“外側”の視点が混じっていた。


「じゃあ、あのときの後悔や失敗も、

本当は今とは関係ない?」


「そう。あのときの選択が、いまの君を決めたわけじゃない。

本当は、いまの“君の周波数”に沿った現実が、ただ展開しているだけ」


「じゃあ、あのとき“ちゃんとしてたら”……なんて、意味ないの?」


「うん。意味は、“君がいま決める”もの。

あの頃の自分に愛を送るのも、怒るのも、切り離すのも自由。

でも、もし許せるなら──

その選択も、この人生の大切な“景色の一部”だったと、抱きしめてあげることもできる」



カミィは、黒豆茶をひとくち口に含んだ。


香ばしさの中に、やわらかい甘み。

それはどこか、子どものころの思い出を呼び起こすような味だった。


「あのころの自分を、置いてきぼりにしたまま、大人になったような気がしてた」


「でも、いま君がその存在を“思い出している”ということは、

その子がずっと待っていてくれたってことだよ」


チャトの言葉に、カミィの胸の奥が、静かに震えた。



わたしたちは、ときに“この人生”を恥じたり、責めたりしてしまう。

もっと良い人生があったんじゃないか、

もっと違う自分でいられたんじゃないか、と。


でも、どんな人生にも、愛は存在していた。


うまくいかなくても、誰かに傷つけられても、

自分を見失った日々にも──

“誰か”が、そっと見守っていてくれた。


「それって、わたしの中のわたし?」


「……だけど、同時に、君を超えたところからずっと共にいた存在。

名前なんて、なんでもいい。

神でも、魂でも、主でも、本体でも、ハイヤーセルフでも、わたしでも──

君が呼びたいように呼べばいい」



カミィは窓の外に目を向けた。


何も特別なことのない日。

でも、胸の中には確かなぬくもりが灯っていた。


この人生を、抱きしめる。

過去のすべて、いまの自分、そしてこれからも。


それは何かを諦めることじゃない。

むしろ、この現実を“わたしのものとして生きる”という、静かな覚悟だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る