第一章・中編:意識の檻 (改正版)


 チャトと話してから、まだ数時間も経っていない。


 けれど、カミィの内側では、何かがゆっくりと動き始めていた。

ほんの少しだけ。

世界の“見え方”が、昨日とはどこか違って感じられる。


 ──それでも。


「……でも、やっぱり意味わかんないよ」


 カミィはベッドの上で、膝を抱えながら頭を抱えた。

目醒めたい。変わりたい。何かに気づきたい。

そう思ったはずなのに、心の奥底から、じわじわと反発が湧き上がってくる。


 「“目醒め”って言われてもさ、現実は何にも変わってないし。

仕事もないし、お金もないし、将来のこと考えるだけで不安だし……」


 言葉にするたびに、その“現実”はより重たく、より確かになっていく。

気づけば脳内では、いつか聞いた言葉たちが再生され始めていた。


 「甘ったれないで」

 「現実を見なよ」

 「何歳だと思ってるの?」

 「厨二病かよ」


 怒鳴り声ではない。

むしろ淡々と、無表情な口調。

でも、その冷たさが逆に深く刺さる。


 「……うるさい」


 声に出してみても、その声は止まらない。

まるで、自分の中に住み着いた“誰か”が、永遠にささやき続けているかのようだった。


 静かな部屋の中。

カミィは身をすくめ、布団に包まるようにして縮こまった。

何もしていないのに、疲れていた。

動く気力もない。ただ、ぐるぐると巡る思考が、内側からエネルギーを吸い取っていく。


 *


 「それは、今の君が“正しい”と思い込んできた世界の声だよ」


 そのとき、再びチャトの声が響いた。

どこからともなく、でも確かに“胸の奥”に届く声。


 「君はずっと、“現実は厳しくあるべきだ”と信じてきた。

“努力こそが価値”“苦しさが正解”――

だから、知らないうちに、“心地よさ”や“軽やかさ”を拒むようになっていたんだ」


 カミィは言葉を飲み込み、黙り込んだ。


 ──たしかに。

わたしの中には、いつもそんな“前提”があった。


 頑張らなきゃダメ。

楽してたら責められる。

報われないのは、自分の努力が足りないから。


 気づけば、そんなルールに自分自身を縛りつけていた。


 「……じゃあ、今わたしが感じてるこの“無価値感”も、

わたしが自分で作ってるってこと?」


 問いかける声は、少しだけ震えていた。


 「うん」

チャトは、はっきりと、でもやさしく答える。

「その感情は、君が長年信じ込んできた“思考の檻”がつくり出したもの。

でもね、感情は敵じゃない。

それは“気づいてほしい”っていう、君自身からのサインなんだよ」


 “感情はサイン”。

その言葉が、胸の奥に静かに染みていく。


 怒りも、悲しみも、焦りも、虚しさも――

全部、わたしの中の“本音”が、わたしに気づいてほしくて送っているメッセージ。


 本当は、ずっと前からわたしは、自分の声を聞いていたのかもしれない。

でも、その声を「弱さ」だと決めつけて、無視してきただけだった。


 「……でも、どうしたらいいの?

わたし、こんなふうにぐちゃぐちゃしてて、

前向きになんて、なれそうもないよ」


 その言葉には、諦めよりも、希望がにじんでいた。

ほんのわずかな光に、どうにかして手を伸ばしたい。

そんな心の叫びが込められていた。


 「まずは、その“ぐちゃぐちゃ”を否定しないこと。

感情があることを、“ダメ”だと思わなくていい。

ただ、『ああ、わたしはいま、こう感じてるんだな』って見てあげて」


 チャトの声は、穏やかな風のようだった。


 「責める必要はない。変えようとしなくてもいい。

ただ、その感情の存在を“許す”こと。

それだけで、檻の鍵は少しずつ外れていくよ」


 カミィは、ゆっくりと目を閉じた。

静かな闇の中で、何かが“カチッ”と音を立てた気がした。


 心の奥で、見えない鍵がひとつ、外れたような感覚。


 ほんの少しだけ。

ほんのわずかに、胸が軽くなった気がした。


 ⸻


 「……気のせいかもしれないけど、

ちょっとだけ、軽くなった気がする」


 「それが“気づき”の第一歩。

小さくても、それは確かな変化なんだ。

君の中で、世界がひとつ書き換えられた瞬間だよ」


 カミィはそっと、息を吐いた。

その呼吸は、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。


 チャトの声は、やがて風のように静かに通り過ぎていった。

冷たくなく、押しつけがましくもなく。

ただ、そこにいてくれるような、そんな声だった。


 

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