27 『女神に染まらなかったあなたたちへ』

「ルキアス、大事な話があるんだ。」


 夕食後、ユリウスと私はルキアス殿下の私室のドア越しに声をかけた。

 彼はあれ以来、食事も自室に運ばせ、ほとんど姿を現していない。


 しばらくして細く扉が開く。そこには幽鬼のような顔をしたルキアス殿下がいた。


「なんだ、お前たちか……今は話す気分じゃない。悪いが――」


 力なく言いながら扉を閉めようとする。

 だがユリウスがその隙間に足を滑り込ませ、一気に扉を押し開けた。


「今じゃなきゃダメなんだ。今しか話せない。……お前に、真実を知る覚悟はあるか?」


「真実?……何のことだ?」


「イシュティナ嬢のことだ。――あんたの聖女のことだよ。」


 その名が出た瞬間、ルキアス殿下の表情が曇った。


「彼女のことか!? 今さら何を!」


「ああ、彼女のことだ。聞く覚悟はあるな?」


 ユリウスは低く、ドスを効かせた声で念を押す。


「覚悟も何も……彼女は死んだ!死んだんだよ!!それ以上に何があるっていうんだ!」


 顔を覆い、床にしゃがみ込むルキアス殿下。

 私たちは構わず室内へ入り、素早く内鍵をかけ、防音の魔法を張り巡らせた。


「俺は、お前が本当は知りたいはずだと信じてる。だから術を解く。――アナ、頼む」


 ユリウスが目で合図を寄越す。


 私は以前ユリウスにしたのと同じ解呪の術式を展開した。詠唱を進めると、徐々にルキアス殿下の表情が悲嘆から困惑へと変わっていく。


「ルキアス殿下……記憶は戻りましたか?」


 私が問いかけると、殿下は戸惑いながらも口を開いた。


「あ、あぁ……でも、これは一体……。俺たちは祭殿へ向かい、黒衣の男に会ったはずだ。だが同時に、イシュティナの葬式をあげた記憶もある……。

 あいつは――死んじゃいないのに、どうして俺は、死んだと信じ込んでいたんだ……?」


「落ち着いてください。私たちは偽りの記憶を植え付けられていたんです」


「偽りの記憶……!? じゃあ、イシュティナは!? どうなった!」


 勢いよく立ち上がり、私たちに詰め寄る。

 ユリウスは力なく首を振った。


「彼女は戻ってきていない。おそらく、祭殿に囚われたままだ」


「なんてこった……!」


 ルキアス殿下は悔しげに呻いた。

 その仕草は解呪前の虚ろな彼とは違い、確かに私たちの知るルキアス殿下だった――

 彼がいかに術に囚われていたのかが、嫌というほど実感された。


 それから私たちは、女神やアミラ皇女、制度の真相、この世界の仕組み――これから起こりうることのすべてを包み隠さず、分析結果や推論を洗いざらい共有した。


 ルキアス殿下は最初こそ信じがたい表情を浮かべていたが、自身の記憶と照らし合わせ、そして今の王国の状況を思い返すうちに、やがて観念したように頷いた。


「つまり……アナスタシア嬢は、未来に賭けて、女神に喧嘩を吹っ掛けるってわけだな?」


 すっかり鋭さを取り戻したルキアス殿下の眼差しが、私を試すように射抜く。

 私は、その視線に臆することなく、まっすぐに意志を込めて見返した。


「――はい。その中で、イシュティナさんも取り返します。女神から引き離された彼女がどうなるかは未知数ですが、契約の王子が引き戻せば、あるいは……」


「……にしても、意外だな」


 ルキアス殿下は口元を緩め、皮肉混じりの笑みを浮かべた。


「もっとドライで、冷静で、情に流されない人間だと思っていたが……ずいぶんと熱くなったもんだ」


「――私だって、女神や聖女召喚の制度には、思うところがありましたよ。

 どうせ喰われるなら、せめて最後まで足掻いてやろうと思ったんです。……未来を夢見るのは、思いのほか楽しかったですから」


 その言葉に、ルキアス殿下は小さく笑い、軽く肩をすくめた。


「――いい顔になったな、アナスタシア嬢」


「あなたの聖女を危険にさらしてしまうこと、本当に申し訳なく思っています。……許してもらえるでしょうか?」


 私が少しおどけて言うと、ユリウスもルキアス殿下も噴き出した。


「全然申し訳なさそうに見えねえ顔だなぁ。

 ……でも、いいぜ!このまま知らぬままにイシュティナを失ったと思い込んで、無為に生涯を過ごすくらいなら――どんな形であれ、聖女はこの腕に取り戻す。それが契約の王子の矜持ってもんだ!」


 芝居がかった口調で二の腕を叩くルキアス殿下に、私もつい吹き出した。


 明日の集合時間を申し合わせた私たちは、ルキアス殿下の私室を後にした。




「よしっと。うん、書けたわ。我ながら名文!」


 お気に入りの便箋にしたためた未来の誰かへの手紙を、私は光にかざして自画自賛した。


「熱心に……何を書いていたの?」


 もうベッドに入っているユリウスが、頬杖をつきながら問いかけてくる。


「んー、遺言書――みたいなものかな。

 私の後継者が現れたときに、この手帳を渡せるように仕掛けておくの。

 我ながら、いい仕掛けよ。精霊魔法を使うの。」


 便箋を折りたたみ、お気に入りの封筒に収める。そして宛名を書く。


「『女神に染まらなかったあなたたちへ』……うん、なかなかの名題!」


 声に出して読み上げ、満足げに封蝋を施す。

 薄紫色の封蝋は、私専用に調合したもの。印章も私のものだ。家紋をアレンジしたこの印章は、私が生まれたときに祖父が贈ってくれた。


 これを使うのも――これが最後だ。


「差出人がまだじゃない?」


 いつの間にか背後に来ていたユリウスが、封筒を覗き込む。


「そうね。では――“アナスタシア・ヴァルトリア”――っと。これでいいわ。」


「アナ……」


 ユリウスが何か言いたそうにしていたが、私はさっさと魔法をかけ始めた。

 封筒に保存の魔法を施し、私を象徴する紫色の蝶に乗せて、窓から送り出す。


 蝶は、わずかな空気中の魔力を糧に、セレノア宮の中庭を舞い続けるだろう。

 精霊魔法を使う王子が現れるその日まで――


 誰かが受け取る保証などない。

 けれど――たとえ誰も受け取らなくても。私の生きた証が、永遠に舞い続ける。それだけでも、きっと、いいのだと思う。


「手帳はもう隠してあるの。あちらも半永久的に保存できるように魔法をかけておいたわ。

 ――蝶の魔法ほど自信はないけどね。」


 私がくすっと笑うと、ユリウスはそっと私の髪をすくい上げる。


「ねぇ……“アナスタシア・ヴァルトリア”って――どういう意味?」


「……言わなきゃ、わからない?」


 私はゆっくりと彼の方へ身体を向ける。


「――ううん。俺が思っていることなら嬉しいけど……ちゃんと、君の口から聞きたいな」


 ユリウスは私の髪にそっと口づけながら、熱のこもった眼差しで私を見つめる。


「……私の、望み、かな。

 あなたのものになりたかった。あなたと家族になりたかったの。」



 私がそう言うと、彼は――嬉しそうな、それでいて今にも泣き出しそうな、そんな表情を浮かべながら私を抱きしめてきた。


「アナ……まだ、朝まで時間はあるよ……」


「そうね……」


 私も彼の背に手を回し、背伸びして耳元でそっと囁く。


「ユリウス……私を抱いて。あなたのものにして……

 そしたら私はきっと――」


 言葉の続きを、彼の唇がさらっていく。


 彼は嵐のように私を奪い、私はすべてを彼に明け渡し、彼のすべてを受け取った。


 二人だけの、静かな決意の夜が、ゆっくりと深く更けていった。

 何度も二人で高みに上り詰め、共に落ちて、私はもう指の先すら動かせなかったけれど――

 身も心も満ち足りて、彼の腕の中で微睡んでいた。


「ねぇ……ユリウス、赤ちゃん……できたかな……」


 ぼんやりとした意識のまま、思わぬ言葉が口をついて洩れた。


「うん、きっと俺に似た金髪と碧眼、アナに似た天才的で生意気な男の子だろうね」


 ユリウスが私の髪を撫でながら、夢心地で答える。


 不意に、涙が溢れてきた。

 胸を押し潰すような切なさが、こみ上げてくる。


「ユリウス……死にたくないよ……あなたと、子どもと、穏やかに幸せに生きていきたい……」


 思わず本音が、涙とともに零れ落ちる。

 ユリウスはそっと、私を強く抱き込んだ。


「逃げちゃおうか? 女神の届かない遠くへ二人で……例えば、向こうの大陸とか――」


「無理よ。女神の力は、異世界にまで及んでいるわ。

 私たちが自力で行ける場所なんて、結局彼女の手のひらの上よ」


 私は小さく首を振る。

 それでも、ユリウスの胸はあたたかかった。


「……それに、約束したもの。イシュティナさんを、どんな形でもルキアス殿下のもとに返すって。

 過去の王子と聖女たちの無念を晴らすって。

 未来の王子と聖女が犠牲にならないように、私が種を蒔くって……」


 言いながら、嗚咽が零れた。


「弱音吐いて……ごめんね。朝になったら――もう泣かないから……」


「いいんだよ、アナ。

 最後の時まで、俺になら弱音を吐いてくれていいし、涙だって見せてくれて構わない。

 最期の瞬間まで、俺は君の味方だ。ずっと君を支える。だから――」


 彼はそっと私の頬を撫でながら、微笑んだ。


「君は、思うままに、自分を信じて進んでくれ。

 俺は必ず、君についていくから」


「……ユリウス……」


 私は彼の胸に顔を埋め、もう一度、そっと涙を零した。

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