第4話 居なかった観客
舞台袖でストップウォッチを握るのは、何年ぶりだろうか。
武藤聡は、黒い幕の向こうに小さな劇場の客席をぼんやりと見やった。三十席もないスペース。ライブ配信と同時収録のイベントで、観客は限られていると聞いていた。
でも──いた。
客席の中央、二列目。眼鏡の女性が静かに座っている。
白いカーディガン。黒髪を後ろで束ねて、視線はまっすぐ前に。
それは、あの夢の中の女性だった。
「本番、入りまーす」
舞台スタッフの声とともに、暗転。武藤は一歩、前へ踏み出した。
ライトの熱が額に差す。
ストップウォッチを握ったまま、彼はネタを始めた。
「この世で唯一、“正しさ”を疑うべきもの……それは、目玉焼きにかける調味料だと思うんです」
〈0.8秒〉
「俺は塩派です、科学的に」
彼の〈間〉は、合っていた。
それは確信だった。
客席中央の女性は、うなずくでも、笑うでもなく、“沈黙で返してきた”。
その反応が、武藤にとって何よりの観測だった。
ネタの最後、氷砂糖を口に入れる。
そして──「……ごめん。宇宙に行ってた。」
〈0.8秒〉
彼女が、微かに口角を上げた。
完璧だった。すべての“間”が、ここに揃っていた。
カーテンコールも拍手もなく、武藤は静かに舞台袖へ戻った。
誰もいない通路。ロビーにもスタッフの姿しかない。
「……あれ? お客さんは?」
武藤が聞くと、音響の若い男が怪訝そうに言った。
「あれ、知らなかったんですか? 今日、配信だけですよ。急遽チケット全部払い戻しで」
「でも……俺、見ましたよ。あの……中央の席に、女性が」
「え、マジっすか? 俺、会場入ってから誰にも会ってないっすよ」
武藤は、自分の荷物の中からノートを取り出した。ネタの構成と〈間〉の記録がメモしてある。
──“中央席:眼鏡の女性。反応あり。0.8秒合致。”
ページの端に、自分でも書いた覚えのないメモがあった。
「静かな世界で、会えた気がした。」
その言葉に、胸がざわついた。
まるで、夢の中と同じ世界線が、現実に侵入してきたかのような感覚。
劇場の天井が、遠ざかっていく気がした。
帰宅後、武藤はすぐに録画データを開いた。
配信用の映像──複数のアングルが切り替わる。
ネタのタイミングも、表情も、間も、思った通りだった。
ただ、一つだけ、決定的に違っていた。
観客がいない。
客席が映るカットでは、椅子がすべて空だった。
声も入っていない。笑いも、拍手も。
ただ、自分の声だけが、虚空に向かって発射されていた。
武藤は思い返す。
たしかに“彼女”はいた。自分の間に、ぴたりと反応してくれた。
その視線、その沈黙。夢の中で感じたあの空気が、確かに舞台の上にあった。
ノートをもう一度開く。今日の〈間〉の記録は残っている。
0.8秒。ぴったりの反応。
でも、「誰から」反応があったかは、もう思い出せないような気がした。
武藤はポケットからストップウォッチを取り出した。
ボタンを押そうとしたとき、気づいた。
……針が、止まっている。
秒針は**「0.8」の位置で凍ったまま**、ぴくりとも動かない。
彼はそっと、机の上に置いた。
視界の隅で、何かが光った。
白く小さな紙──氷砂糖の包み紙だった。
劇場で食べたはずのそれが、なぜか机の上に置かれていた。
他には何も残っていなかった。アンケート用紙も、観客リストも、劇場の告知ページも更新されていて、**“そもそもその日、観客を入れた事実はなかった”**ことになっていた。
つまり、“あの人”は、記録されなかった。
でも、記憶には残っていた。
そして、〈間〉の中には、確かにいた。
夜の街を、武藤はゆっくり歩いた。
劇場の前を通りかかると、すでに明かりは消えていた。
鉄の扉の前で立ち止まり、少しだけ目を閉じる。
“そこ”に、誰かがいた気がする。
“そこ”に、自分の言葉が届いていた気がする。
ストップウォッチの針は、まだ動かない。
だが、彼は静かに微笑み、言った。
「……でも、たしかにいた。俺の“間”に、あの人はいた。」
そして、空に向かって、口を開く。
「見えない物にこそ価値がある!」
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