ふたりを結ぶ、木の故郷

わたふね

前篇|風と木のはじまり

東京から特急で四時間あまり。

揺れる車窓の向こうに見えてきた山々は、どこか懐かしさを感じさせた。


綾乃は窓際の席に座り、カメラと取材用のノートを膝に置いたまま、深く息を吐いた。

久しぶりに、仕事以外の理由で息を吐いた気がした。


今回の取材は「伝統木工の町、飛騨高山の今を追う」という企画。

伝統工芸を今に伝える若手職人にスポットを当てた特集で、綾乃はその主筆を任されていた。


けれど、本当のところ──

彼女は、自分の心が何かを探していることに気づいていた。


東京での日々は慌ただしく過ぎ、記事は量産され、取材も慣れた。

でも、その“慣れ”が、どこか自分を空っぽにしている気がしていた。


だから、飛騨の風景に心が引かれた。

木と生きる町に、人と自然が織りなす時間に、自分が何かを取り戻せる気がしたのだ。


初日は観光案内所や資料館をまわり、歴史や統計を収集した。

そして、その夜。宿に戻る道すがら、ふと小さな作業場の前を通りかかった。


道沿いには町屋が立ち並び、ひときわ控えめな木の看板が掲げられていた。

看板には名もなかった。ただ、古びた木扉が半分開き、そこからかすかに木屑の香りと刃物の音が漂ってきた。


その音に、綾乃は自然と引き寄せられた。


「取材?……俺、あんまり喋るの得意じゃないんで。」


中にいた青年は、やや警戒するような目でこちらを見た。

藍染の作業着、くしゃっとした髪、細く引き締まった指。

彼の背後には、整然と並んだ刃物と、削りかけの胡桃材があった。


「少しだけでいいので、お話を……写真も撮らせてください。」


彼はしばらく黙っていたが、やがてふっと息を吐き、

「どうぞ、勝手に見ててください」と言って、作業を再開した。


その姿は、無駄がなく、静かで、木と対話しているようだった。

刃が木に触れるたび、細かな削り屑が舞い上がる。

彼は言葉少なだったが、手元は雄弁だった。


(この人は、きっと“話さないことで語る”人なんだ)


綾乃は、そう思った。


翌日も、綾乃はその作業場に向かった。

そして、またその翌日も。


彼──修一は、毎回少しだけ、昨日より長く話してくれるようになった。

どの木材が扱いにくいか、季節によって刃の入り方がどう違うか、

そして「木を削るというより、木が削らせてくれるのを待つんです」と、ぽつりと教えてくれた。


その言葉は、綾乃の胸の奥に残った。


五日目の午後、修一はふと作業の手を止めて言った。


「プリン、好きですか?」


「……え?」


「青いのがあるんです。飛騨限定の。ちょっと、変わってるけど。」


気づけば綾乃は、彼に連れられて小道の先にあるカフェの裏庭にいた。

春の陽射しの中、並んで座った木のベンチ。

ガラス瓶に入ったプリンの上には、透き通るようなブルーベリーのジュレが乗っていた。


ひとくちすくって、口に運ぶ。


「……うん、すっごく美味しい。」


声が弾んだ。

プリンのやわらかさと、ほのかな酸味が、心をふわっとほどいていく。


すると、彼が少し目を伏せて言った。


「……もう、行っちゃうのか?」


その声は、あまりにも自然で、

でも、どこか必死で、

綾乃の胸をつかまえた。


(そう言われたら、帰れないじゃない……)


笑ってごまかしたけど、心はぐらりと傾いていた。


──私は今、ここにいたい。

──この人のとなりに、もう少し。


その夜、宿の部屋で綾乃はスケジュール帳を開いた。

東京へ戻る予定日には、赤い線が引かれていた。


けれど彼女は、迷うことなくページの隅に書き加えた。


帰る日、延ばせないかな。

もう少し、あの人といたい。


そしてページを閉じると、窓の外に耳を澄ませた。


山から吹く風の音が、どこか遠くで木々を揺らしていた。

それはまるで、「その気持ちで、いいんだよ」と背中を押すように──

やさしく、確かに響いていた。


(つづく)

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