『エリア』(三)
「エリアっ!」
「エマ……!久しぶりねぇ!少し見ない間に、こんな綺麗になって……」
翌日。エリアが目を覚ますと、それを聞いたエマは急いで彼女のいるベッドに駆け込んだ。昨日のうちに帰って来たことは知っていたが、その時にはもうエリアは眠ってしまっていて顔を見ることしかできなかった。
五年ぶりに聞く馴染みの声に、目の奥が熱くなる。随分と痩せ細り、長く綺麗だったライトブラウンの髪も痛んでいたが……その優しさが滲んだ声は何も変わっていない。
十歳の頃、まだ七歳だったセヴェーロと一緒にここへ売られ……心細い中、いつも二人を気に掛けてくれたのがエリアだった。
当時の娼館は家族ぐるみの経営で、とても厳しく……言うことを聞かなければ丸一日食事を抜きにされる。その度にエリアは元々少ない自身の食事を、こっそり分けてくれた。
本当に……優しくて、綺麗で、明るくて……ずっと太陽みたいな人だ。
頬を撫でてくれる細い力のない指先に、元気だった頃を重ねてしまい……堪えていた涙が溢れそうになる。
そっとその手を取ると、エマは顔を見られないよう俯きながら、下唇を強く噛み締めた。
「ごめんなさい。ちょっと……待ってて……またすぐに、来るわ。すぐ、戻るから」
「ええ……。ふふっ、強がりなとこも変わってないわね。早く戻ってきて、話したい事いっぱいあるんだから」
エマと一緒に見舞いへ来ていたセヴェーロは、戻るまでエリアの話し相手を任された。ベッド横の椅子に腰掛け、少し緊張して身を固くする。ちゃんと会って話すのは、ほとんど十年ぶりだった。
「セヴェロも、あんなにちっちゃくって泣き虫だったのに……ずいぶん立派になったわねぇ」
「……子供の頃は、皆んな大体小さくて泣き虫でしょう」
「そう?でも、あなたは特に小さかったから……よくエマの後にくっ付いていて、妖精みたいだった」
思い出してクスッと笑みを溢すエリアに、気恥ずかしくて目を逸らす。
「人見知り、だったんですよ。エマには……迷惑掛けたと思ってます」
「ふふっ、あの子も相当可愛がってたじゃない」
口元に添えられていた手と共に、視線が膝上へ落ちると……ふっとその顔に憂いたような影が差した。
「あなたが、娼館から姿を消した時……どれほど心配したか……」
「……すみません」
「いいえ……私はあなたに、何もしてやれなかった……。またこうして会えたんですもの、セヴェロは間違ってなかった」
その言葉に……娼館から逃げした罪悪感が、少し軽くなる。
――十二歳の時。客の男を殺して逃げた。
子供を
あの時のことは、今も夢に出るほどよく覚えている。
上に覆い被さった男の、眼球が落ちそうなほど大きく見開かれた目と……頭から流れる
無理やり開かれた体に残る、痛みと生温かさ。衣装棚から転がり落ちた、角が赤く濡れた分厚い花瓶が、不規則に揺れながら同じ場所で回っていた。
……嫌な記憶にそっと目を瞑ると、暗くなった視界へその残像を置いていく。残された絵が消えることはないが、目を開けている内は見ることもなかった。
「その呼び方……変わってませんね」
「ええ、『
「……似合わないですよ」
「そんな事ないわ。本当に、かっこよくなった」
エリアの手がそっとセヴェーロの手の甲に添えられる。屈託なく笑うその表情が酷く懐かしい。
「セヴェロ、近くに来て。もっとよく顔を見せて」
伸ばされた指先に従って近寄れば、氷のように冷たい指が頬を撫でた。夕焼け色の綺麗な瞳は、昔より少しばかり……霧がかって見える。
「あなた――番がいるの?」
その言葉に、セヴェーロはハッとして頸の後ろを手で押さえた。
思わず離れると、エリアは驚いて固まったままキョトンとしている。
幸いなことに……エリアの目は毒の影響であまり見えておらず、頸の傷もぼんやりとしか認識出来ていなかった。
「は、い……少し、前に」
「どんな人……?優しい?」
「…………優しい……」
言葉を繰り返すように、その意味を持たない掠れた声が口から溢れる。
なんて話そう……もう長くないエリアに、心配をかけるようなことは言いたくなかった。動かない右の手首を掴むと、強く握りしめる。
「いい、人です。……軍人なんだ。あまり、街には帰って来ない」
「そうなの……寂しくない?」
「……俺は、みんながいるから」
話題を変えなければと、頭の中をぐるぐると思考が巡る。パッと思い浮かんだのは、エリアの番の男だった。
「あの、デカい男は……」
「オスカー?ふふっ、いい人だよ。優しくて、誠実で、かっこよくて……私が、子供も産めない出来損ないだって伝えても『側にいてくれれば良い』って言ってくれた。ちょっと……正直過ぎて、騙されやすい所もあるけど……私には、勿体無いぐらい素敵な人」
白い顔にほんのりと赤みが差す。
柔く微笑むその顔は、見たことがない表情だった。
「あの人の番いになれて……幸せだった。私が、子供さえ産めれば……オスカーも、王都で肩身の狭い思いをしなくて済んだのにな……ねぇ、セヴェロ」
「はい……」
再び伸ばされた手が、セヴェーロの細い首に触れる。
何か、勘づいているのか……。まるでヒビが入った器でも触るように、その手は慎重だった。
「あなたは……幸せになるべき人よ。今まで散々苦労してきたんですもの。約束して……私の分も。いえ、私以上に――幸せになって」
※
それから二週間後――。
解毒剤と痛み止めのおかげか、穏やかに毒は進行し……二日間の昏睡状態の末、エリアは眠るように息を引き取った。
彼女の望み通り遺体はテナイドの地に埋められ……葬儀にはロウトの娼婦たちと、エリアを知る街の友人たちで厳かに行われた。
悲しみに暮れる参列者の中で、最も涙を流していたのは間違いなく番のオスカーだろう。
名前が刻まれた墓石の前で、人の目も気にせず泣き続ける男の姿に……セヴェーロは少しだけ、ほんの少しだけ……エリアが羨ましいと思った。
――自分にもαは居たのに。どうしたら、家畜じゃなくて……あんな風に愛して貰えたんだろう。
頸に残る噛み跡からして、その扱いの全てが正反対だった。
……自分で殺しておいて、酷い言い草だな。
――娼館へ戻り少し落ち着いた頃、セヴェーロの元へオスカーが礼を言いに訪れていた。
その目元は赤く泣き腫れていて、疲れ切ったようにしょぼしょぼしている。
「ありがとう、ございました。この街に来てから、エリアはいつも楽しそうで……ここに彼女を返してやれて、よかった」
グッと手を握りしめる。その瞳は悲しみというよりも、後悔に苦しんでいる様だった。
セヴェーロは座っていた椅子に手を掛け立ち上がる。
「……オスカー。俺も、貴方に感謝を」
「っ……感謝なんて……俺は、何もしてやれなかったっ」
眉の間に深い苛立ちを刻み、片手で両目を覆う。涙で枯れた声を絞り出した。
「俺が……彼女を番にしていなかったら……エリアはまだこの街で生きていたかもしれない。もっと良いαと番になっていたかもしれない……俺がッ……」
「当時の娼館は、体の弱いエリアが生きていける様な場所じゃなかった」
オスカーに近づき目を隠している腕の袖を掴むと、強く引っ張る。チョコレート色の濡れた瞳と、やっと目が合った。
「この国で、最後に『幸せだった』と言って死んでいけるΩが……どのぐらい居ると思いますか。ほとんどのΩは、貴族や王族でない限り奴隷としてαに買われ、跡取りだけ求められて死んでいきます。……きっと、指で数えられる程度です」
袖を掴む手に力が入る。この男にだけは、エリアを番にしたことを『間違い』だったなんて言ってほしくない。
「エリアは……貴方と番いになれて、自分は幸せだと言っていました。貴方が――エリアの番でよかった。彼女を貴方の番に、幸せにしてくれてっ……ありがとうございました……」
黒い瞳いからガラス細工のような、綺麗な涙が流れ落ちた。
エリアの笑った顔が脳裏に浮かぶ。オスカーは競り上がる様な様々な感情を飲み込みきれず……セヴェーロの肩を引き寄せると、覆う様に強く抱きしめ
※
「その……すみませんでした」
少し落ち着いた頃。セヴェーロから離れるとオスカーは床の上に膝を付いた。
取り乱したとは言え……男同士でも、番がいるΩに抱き付いくなんて非常識にも程がある。
「いや、気が晴れたなら……よかった」
ふっと目を細め、整った顔が小さく綻ぶ。
……初めて笑った顔を見た。エリアが少し前に『セヴェロは笑顔が可愛い』って話していたが……確かに、その通りだと思う。
「ボス!失礼します!」
不意に声が聞こえ、ノックとほぼ同時に部屋のドアが開いた。そこには目を丸くして立っているエンツァの姿が見える。オスカーも来ているとは思っていなかったんだろう。
この二週間……館内の手伝いをすることも多く、エンツァと会話をする機会が何度かあった。お陰で、初めて会った時よりは警戒も薄れている。
――ボス、か。
その呼び名に、魅力的な響きを感じた。なりたいとかではなく、自分もそう呼びたいと思った。
「すみません。お話中でしたか」
「ああ、少し。他に、まだ何かあったか?」
突然の来訪に、セヴェーロは雑に目元を拭うとオスカーへ問いかける。考えるよりも先に、その口は勝手に動いていた。
「あの……俺を、貴方の部下に……フェクダへ入れてくれませんか」
二人は驚いて目を丸くしている。オスカーは膝を付いたまま、セヴェーロを見上げた。
「もう王都に戻るつもりはありません。……彼女を愛してくれた、彼女が愛したこの街のために働いて、恩を返したいんです」
緊張に強く手を握りしめる。
セヴェーロはエンツァの顔を見ると、尋ねるように首を傾げた。
「俺はいいけど……」
「ボスが、いいなら……エリアさんも、良い人だったし」
「えっ……?い、いいんですか。そんな簡単に」
もっと仲間内での話し合いやら、試験的なものがあるのかと思っていた。オスカーは困惑して頭上へ「?」を浮かべる。
「……貴方がどれだけ誠実で、優しくて、いい男か……エリアから会うたび散々聞かされました。断る理由はありません。……ただ、俺はΩです。Ωの下に付くのは……苦じゃないですか」
「まさか!バース性なんて関係ありません。俺は、貴方の部下になりたいんです」
真っ直ぐな言葉に驚きながらも、セヴェーロの表情に再び柔い笑みが浮かぶ。
「よろしく。オスカー」
「はい。よろしくお願いします」
オスカーは片膝を付き
自分は騎士じゃないが、何か一つ誓いを立てたかった。
「――この身を私のボスと、この街に捧げることを誓います」
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