素直な人(五)前
通された部屋は客室ではなく、デスクと本棚、二台のソファが向かい合って置かれた質素な書斎だった。ソファに座るよう勧められると、テーブルの上には紅茶ではなく灰皿が置かれる。
「煙草は吸うかしら」
「いや、今はいいや」
「そう、一本頂いても?」
「構わないよ」
そう言うと、彼女は慣れた手付きで煙草を加え火をつけた。
α用の抑制剤も完全に切れてしまった。煙で苦手なΩの匂いが薄まるのはありがたい。
ここまで来るのに誰一人娼婦の姿は見かけなかった。客はそこそこ入っているのに、ほとんど空いている客室へは案内されていない。
部屋数に対して娼婦の数が足りてないのだろう。
「王国一の巨大娼館って聞いたけど、Ωはそんなにいないんだね」
「ええ……昔の話ね。セヴェーロがオーナーになった時、半数近くの子が辞めちゃったの。ほとんどの子がエディに無理やり連れてこられて、働かされてたから当然なんだけど」
へぇ……ボスの座と共にフェクダの名ごと、娼館の所有権も奪ったのか。エディ・ゼネッタを殺して得た甘い汁を余す事なく受け取ったんだろう。
まさに力尽くで奪い取って手に入れた、彼の地位だ。
「エディがオーナーだった時は大変だったよ。何人相手しても全然お金貰えないし、体調が悪くても、発情期でもお客さん取らされるし……逃げ出そうとして、殺された子もいたわ」
「見せしめだったんでしょうね」と呟きながら、ふっと細い煙を吐いた。指の間に止められた細長い煙草へ視線を落とす。
「今では娼館で働きたい子だけが残ってる。チップは個人の物になるし、セヴェーロは納金を受け取らないから、無理にお客の相手をしなくても店の中だけで十分やりくりが出来る」
「納金を……?なら何で、娼館の面倒なんて見てるんだ」
「……私が頼んだのよ」
灰皿の上で、静かに叩き落とされた燃えカスがバラっと崩れた。
「一年ほど前、彼が突然娼館にやって来て『フェクダを潰した。エディは死んだから、もう好きにしていい』と言ったの。普通なら、やっと自由になれると喜ぶんでしょうけど……私みたいに子供の頃ここに連れて来られた数人の子達は、娼館を出たところでどうやって生きていけばいいか分からなかった。けど『フェクダ』と言う名のバックを失えば、街のギャングに好き放題荒らされて……今みたいに稼ぐなんて事は出来なかったでしょう」
――フェクダを潰した?
言葉の違和感にベルティは目を細めた。
ファミリーを奪うためにエディ・ゼネッタへ近づき、信頼を得た上で不意を突いて殺したのだったら『潰した』ではなく『乗っ取った』じゃないのか?
「セヴェーロがフェクダのボスになったのは、君たちを守るためだと?」
「ええ……『フェクダ』の名を捨てずにバックにいてくれた。それだけじゃない。シレーナの作成も、縄張りの守りも……彼がいるから
「セヴェーロは、この街に必要な人よ」
その芯の通った声からは「これ以上近づくことは許さない」というような、牽制的な響きがあった。
冬の朝空のような澄んだ青い瞳がベルティを見上げる。セヴェーロは手負いの獣のような煌めきがあったが、彼女はひんやりと冷静でいて冷たい。
だが、その鋭い眼差しは二人ともよく似ていた。
「……さっき部屋にいた娼婦が、君たちは幼馴染だと言っていた。セヴェーロと仲が良いんだね」
「あら、スエラね。彼女にしか話してないから」
再び煙草を吸うと、その綺麗な顔の口端に小さな笑みが浮かぶ。
「セヴェーロとは子供の頃住んでいた家が近くて……同じ日に、同じ人買いに売られてこの娼館に来たのよ」
「娼館に売られたのか」
「ええ……あの子はまだ八歳にもなってなかった」
言ってしまえばよくある話だった。
平民にΩが生まれても、まず抑制剤が高すぎて買ってやることができない。発情期があるせいでろくに働くことが出来ず、そんな出来損ないを家に置くわけにもいかなかった。なら最も高値で売れる子供のうちに、足を運んできた人買いへ売り渡してしまう。
子供は直接αに買われるか、娼館に連れて行かれるか……またはオークションで他国に売り飛ばされる。大抵ろくな場所へは行かず、そこで使い物にならなければ捨てられた。
「……話が逸れたわね。昔話はいいのよ。大して興味もないでしょう」
口を付けた煙草の先が、ジッと赤く熱を上げる。煙と共にゆっくりと灰へ変わっていった。
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