出会い

「動くなッ!」


 αが怒鳴った。

 ただそれだけなのに、ビクッと肩が震え上がり手から力が抜ける。指先から銃がすり抜け床へと落ちた。

 困惑し、転がった銃を目で追いかける。緊張で張り詰めた体が、まるで固められたように動かない。


「Ωか……跪いて、地面に手を付け」


 冷たい口調、物を見るような目。

 男はジャケットの下から見せ付けるように角張った黒い銃を取り出した。コツコツと靴を鳴らしながら近づいてくる。


 手が震える。カクカクと小さく膝が笑っていた。

 αが怖くないなんて、やっぱり嘘だ。その声に、視線に、本能が逆らうことを恐れた。


「聞こえなかったか。跪け」

「っ……く、来るな」


 後ろで小さな手が服を掴む。――この子だけでも、逃さないと。

 胸元のホルスターに手を伸ばす。その動きに気づいた男は大きく踏み込むと、素早くエンツァの胸ぐら掴み上げた。


「ッぅ……!」

「エンツァ!」


 トリシャの悲鳴が聞こえる。

 子どもと大人のような身長差に自然と首が閉まった。つま先立ちになり、男の手首に爪を立てる。その透き通った赤茶色の瞳が、脅すようにギラギラと睨んでいた。


 男の右手には真っ黒い金属の塊が握られている。撃たれれば確実に死んでしまう。

 息が詰まる。恐怖に強く目を瞑った。


 怖い、こわいッ、助けて……!


 その瞬間――地下へ繋がる扉が、木がへし折れる音と共に勢いよく開いた。

 砕けた木片を撒き散らしながら、奥から鋭いダガーが風を裂く。


「ッ!」


 顔面に向かい飛んでくる刃を、眼鏡の男は身をそらして避けた。

 しかし、直後に机を蹴って飛びかかってきたセヴェーロの姿に呆気を取られ、その頬骨に重い蹴りが入る。


 金縁の丸眼鏡が宙を舞い、男は後ろの本棚へと背中から倒れた。その衝撃でバラバラと数冊の本が雨のように落ちていく。


「エンツァ!」

「ボスっ……」


 セヴェーロは床に崩れ落ちたエンツァの側へ駆け寄り膝をついた。

 地下から一気に階段を駆け上がってきたのか、そのいつも均整な呼吸は乱れている。


「立てるか」

「っ……ご、ごめんなさいっ……」


 足が震え、力が入らない。

 αの声を聞いてから、まるで体がいうことを聞かなかった。


「……子どもと隠れてろ。すぐに終わる」


 ほっそりとした白い手に、血の付いたベレッタが握られる。


 この男を、αを殺すんだ。

 背中にゾッとする様な恐怖が走った。

 何故かわからない……本能が嫌悪する。覚えたのは酷く責められるような罪悪感だった。


「いっ……たぁ」


 ヴィラは頬を抑えながら本を退かし、なんとか身を起こした。じわっと口の中に血の味が広がる。

 ――全く今日はツイていないな。どれもこれベルティ大尉のせいだ。


 コツコツと革靴の音がこちらを振り返る。視線を上げた先には黒シャツにジャケット姿の男が立っていた。


 ダークブラウンの短い髪に、黒い瞳。右手には黒の革手袋……。

 まさかこんな場所に潜んでいたとは。


「貴様……『セヴェーロ・ポリアンカ』だな」

「だったら何だ」


 想像していたよりも穏やかな声つき。Ωらしい細身な腕の先に握られた黒いベレッタが、確かな殺意を向けている。


 α相手に……とんだ命知らずだ。

 仲間に手を出された怒りに、その黒い瞳はギラギラと血走っている。

 ――取り敢えず話し合い……は出来そうにないな。面倒だが、無理やり取り押さえて捕まえるしかない。


 ヴィラは床を蹴って飛び上がると、素早い身のこなしで弾道を避けた。床に散らばった紙が舞い上がる。

 手に取った分厚い本を投げつければ二発の銃声が響き、それを合図に静かだった書斎は一気に戦場へと変わった。


 狭い部屋の中本棚を背に、互いに殴り合うような撃ち合いが鼓膜を揺らす。

 α特有の頑健な腕先から撃たれる銃弾を、鋭い黒眼が弾道を見極め身を翻した。

 銃先が踊る。本が焼け、撃ち抜かれた本棚の破片が飛ぶ。


 ――くそっ、埒が開かない!


 ヴィラその長い足で一息に間合いを詰めると、セヴェーロの左手をグリップで叩きつけた。


 落ちた銃が床に転がる。

 続け様に回し蹴りをその顔と胴に放ったが、風を避ける羽根のように足先を抜けていく。

 意地になって蹴り込んだ先をかわされると、隙をついて懐へ入り込んだセヴェーロの踵が、ヴィラの脇腹に深く入り込んだ。


「チィッ――!」


 肋骨を刺す痛みに舌を打ちつけ、素早く後方へと距離をとる。

 カンッ――と床に足を付けた革靴に、木の床を踏む音ではないことに気が付いた。

 なるほど……華奢な割に重い蹴りだと思った。あの靴底には鉄が仕込まれている。


 セヴェーロは腰裏からをダガーを手に取った……左手が銃の反動で痺れてきている。その額には数滴の汗が浮かんでいた。


 浅く、速く繰り返す呼吸に耳を澄ましながらヴィラは体勢を直す。

 王国軍第二部隊中尉の自分が……こんなゴロツキの、しかもΩに振り回されるわけにはいかない。


 あまり、戦いの最中に使いたくなかったが――。


「――動くなァッ!」


 雷のような怒声が部屋に響いた。

 緊張に空気が張り詰め、肌が痺れる。

 

 αの咆哮は相手を威圧する。

 本当はα同士で力差を示し、無駄な血の争いを避ける為の『グレア』と呼ばれる行為だが……Ωやβが聞けば、体が緊張して身動きが取れなくなる。


 ダガーを握り締めた左手が動きを止めた。

 ――今なら抑え込める。そう思った矢先……睨み上げた黒い瞳に宿る眼光の力強さに、ヴィラは思わず足を止めた。

 その殺気を孕んだ獰猛な瞳が、静かに支配を否定している。


「黙れ――」


 冷たい声が足元から這い上がり首を絞めた。

 セヴェーロの掌で生き物のようにダガーが舞う。ヴィラは味わったことのない奇妙な感覚に背筋が凍りついた。狩る側と狩られる側が逆転する……足元の常識が崩れていく恐怖。


 ――こいつは、何だ。


 研ぎ澄まされた刃先が顔面を目掛けて切り掛かってくる。

 寸前で身を引き首横を皮一枚裂いていった。銃を構える隙もなく、軽々と飛び上がり右足が頭部を狙う。掲げた左手に固い靴裏が重く突き刺さる。


 ――そうだった。こいつは番を殺した。本能を……殺したΩだ。


 αを殺した愚者に常識が通用するはずない。

 突き刺してきたダガーを咄嗟に取った本で受け止めた。向けた銃口の先を身を捻って軽やかに避けていく。


 エンツァはトリシャと共に机の下に身を隠しながら、その激しい攻防戦を息を忘れて見つめていた。

 ――α相手に戦うのは怖いって、αは狼でΩはウサギやネズミなんて……言ってたくせに、これの何処がウサギで弱い小動物なんだ。


 力ではαに劣るが、戦いの経験と感の良さ、動きを読む速さ正確さ、その『才』は間違いなくセヴェーロの方が上だった。ヒシヒシと肌に感じる実力の差が、ヴィラを追い詰め、動きを焦らせる。


「ッ――クソっ!」

 αの自分が、Ωに負けるなど決してあってはならない。アルフェラッツ王国のαが、そんな恥を晒すわけには――。


 不意にセヴェーロは素早く身を落とすと、ヴィラの足を蹴り払った。

 隙を突かれ、バランスを崩した身体がぐらりと大きく傾く。


 しまった――。

 目の前でセヴェーロの手から握っていたダガーが離されると、瞬きする間に胸元のホルスターから銃を取り出した。


 ――αはβよりも硬く、刃物でとどめを刺すのは難しい。

 暗い銃口の穴が頭を捉える。逸らされることのない黒い瞳は、俺の死に様を見ていた。


 ――死ぬ。


「撃つな」


 突然場を裂いたその声に、部屋にいた全員が動きを止めた。

 空気がピンっと張り詰め、上から押さえつけられたように身体が動かない。


 コツコツ……と規則正しい足音が部屋の奥から響く。

 淡い色の金髪を揺らしながら、エメラルドグリーンの綺麗な瞳がセヴェーロを捉えた。その微笑んだ口元に白い歯が優雅に覗いている。


「――見つけた」


 ゾッとするほど甘い声色に、セヴェーロは全身が冷たくなるのを覚えた。

 じわりと冷や汗が浮かぶ。引き金の手前で指先が震え、全てを見透かすような視線から目を離すことが出来ない。

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