匂い(二)

 ロウトへ戻ると事態に気付いたエマがすぐに部屋と応急手当ての道具を用意してくれた。幸いにも額の切り傷は見た目ほど酷くなく、数針縫う程度で済んだ。


「彼女の名前はローズ……バース性はβで、攫われた子が12歳のΩだそうです。父親を戦争で亡くしていて、王都では住む場所を失い、妹の抑制剤も高過ぎて買えないためにテナイドへ来たと言っていました」


 エンツァは意識を取り戻した女性から聞いた話をセヴェーロへ伝えた。三階の踊り場、廊下から吹き抜けになっているラウンジを黒い瞳が眺めている。その左手には煙草の煙が糸のように昇っていた。


「道を歩いている途中で何者かに襲われ、抵抗したところ殺されそうになり、ローズは何とか逃げ延びましたが妹を馬車で連れ去られました。……相手の馬車には『クレマチス』の花が描かれていたそうです」

「メリーニの手下か……」


 風車のように大きく開かれた花弁が描かれた荷馬車は、高級娼館『クレマチス』の所有馬車だ。

 薄い唇がそっと煙草を咥える。ふっと煙の糸が一瞬大きく乱れた。


「……誘われてるな」

「え?」

「彼女は右足を引きずってた。追ってを撒いて逃げ切れるとは思えない。誘拐場所についてもやけに詳しい……俺たちに助けを求めたのも、部下の指示だろう」


 エンツァは緊張に顔を強張らせた。だとしたら、これは罠だ。Ωの子どもを餌に、メリーニがボスを誘い出そうとしている。


「何のために」

「目的は分からないが……俺の縄張りで、好き勝手はさせられない」


 ラウンジから視線を上げると、台座の上に置かれている灰皿へ煙草を押し付けた。まだ付いてそれほど経っていない火先が名残惜しげにジュッと音を立てる。


「子どもを助けに行く」

「はい!」


 吠えるようにエンツァは声を上げると、自身のホルスターを握りしめた。

 すぐ隣の部屋でローズを看病していたエマは、闘志を孕んだその声に手の動きを止める。……またあの子たちは、危険な場所へ行くのだろう。青色の瞳を不安げに揺らしながら、そっと視線を膝上へと落とした。



━━━━━━━



「これかぁ、君が話してた娼館。思ってたより大きいね」


 昼下がり時。街頭に囲まれた薄汚れた娼館をベルティは見上げた。そこそこ客も入っているようでそのへんの道端よりは人影が見える。


 フェクダのボスを探すと言っても、何のヒントも無しに見つけるのは難しい。二人は取り敢えずヴィラが話していた娼館の正門近くに来ていた。

 ふわりと辺りに甘い香りが漂う。Ωの匂いはよく花に例えられるが、広大な花畑に立たされたとしてもここまで濃い香りはしないだろう。


「中に入って、館長にでも話を聞いてみますか?」

「いや、俺は止めとくよ。Ωの匂いに酔いそうだ……」


 ベルティは眉間に皺を作り顔をしかめた。雄を誘い快楽を求めるΩにも、それに群がる娼館の客にも嫌悪しか感じない。


「相変わらず苦手なんですね。Ωの匂い」


 αの癖に。と言いたげなヴィラの口からため息が漏れる。


「その様子じゃあ、ベルティ大尉が番を作るのはまだ先になりそうですね」

「……相性のいいΩが見つかっていないだけさ」

「大尉と相性のいいΩなんているんですか。普通の友だちだっていないのに」

「あははっ、自分より格下すぎる奴の相手しても虫に話しかけてるのと変わらないだろ?」


 綺麗な顔をほころばせながら、随分な事を言う。ヴィラはその作ったような笑みにげんなりと首を振った。

 子どもの頃は俺よりも愛想が良くて、誰にでも近しい人だと思っていたが……いつからこんなに捻くれてしまったんだろう。


 北から吹いてくる冷たい風に顔を背けた時、ベルティ大尉がふと何かを見つけた様に娼館側へ目を向けた。ピタッと動きを止めた大尉を訝しんで視線の先を追ってみたが特に何も見当たらない。


「ベルティ大尉……?何かありました?」

「今の匂い……」

「え?」

「いい匂いがしなかったか。Ωにしては薄い気がするけど……なんだっけ?この匂い」


「いえ……何もしないですよ?」


 娼館の周りは混ざり合ったΩの甘い香りしか感じられなかった。今の北風に乗って来たのだろうか?だとしても、近くにいたら気付きそうだけど……。


「君、番を作ってから鈍感になったんじゃない」

「そんなわけ無いでしょう。フェロモンに釣られないってだけで匂いは分かりますよ」


 大尉がいい匂いだと言うΩの香りなんて早々ないだろう……少し惜しいことをした。

 軽く鼻を鳴らしながら辺りを見回した際、ヴィラはガタガタと荷を揺らしながら一台の馬車が後ろから近づいているのに気が付いた。


 決してそう広くない娼館前の通りを車輪を弾ませながら、急な速度でこちらへと迫って来ているのだ。二人の姿に気付いても、御者は止めるどころか馬を鞭で叩きさらにスピードを速める。

 鞭打たれた馬が荒々しく声を上げた。咄嗟に道端へ避けたが、もし打つかりでもしたら軽い怪我では済まされないだろう。目の前を白い布に覆われた荷馬車が、土埃を巻き上げながら突っ切って行った。


「なんだあの野郎っ!ここが王都だったらαへの不敬罪で捕まえてますよ!」

「……あの馬車」


 ベルティは走り去っていく荷馬車の後ろ姿を見つめる。その白幕には大きな花弁を風車のように広げた花のマークが描かれていた。


「『クレマチス』の所有馬車だ……どうしてこの街に」

「クレマチスって、王都の高級娼館のですか」

「あぁ、マルコ・メリーニは聞いたことがあるだろう。悪い噂の絶えない……王国一腹黒い成金だ」


 王国では規制されている違法強制発情剤の取引。他国へのΩやαの売買、誘拐……。

 それでも罪を問われていないのは、王国内でメリーニの肩を持つ貴族や王族のαがいるからだ。メリーニから薬を買い、Ωを買い、権力で悪事をなかったことにする。

 あの男は王国を腐敗せていくカビだ。


「ヴィラ、馬車の後を追おう……何か面白いものが見られるかもしれない」

「えっ、馬車をですか?走ってですか!?ちょっと、大尉!待ってくださいっ!」


 ふっと湧いてきた好奇心に煽られ、北へと向かっていく荷馬車を追いかけた。夜の間に降った雨のおかげで、道には馬と車輪の跡がくっきりと残っている。

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