第7話
朝。窓の外は快晴だった。
朱音がキッチンで湯を沸かしている。何も変わらない、穏やかな朝のはずだった。
だが、昨日の音声ログのことが、頭から離れない。
「彼にバレるな」――誰の声だったのか。なぜ、あの場所で録音されたのか。
なにか、ひっかかる。
俺は何気なく、ダイニングテーブルの向かいに座る朱音を見つめた。彼女はいつも通り、コーヒーを淹れている。スリムな背中、白い指先、静かに微笑んだ横顔。
――ただ、その視線が一度も俺と交わらなかった気がする。
食後、朱音が洗い物をしているあいだ、俺はリビングの壁に掛かった姿見の前に立った。
そこには、俺ひとりしか映っていなかった。
朱音は、俺のすぐ後ろにいるはずだった。声も聞こえていた。
なのに、鏡の中では、誰もいない。いや、最初からそこに誰もいなかったような、自然すぎる“欠落”。
ゾクリと背筋が冷えた。
午前中いっぱいを使って、昔の記録を探った。スマホ、パソコン、SNS、クラウドの写真、メール履歴。
何百枚もある写真の中に、朱音の姿は一枚もなかった。
会話の記録も、やりとりしたLINEも、名前すら出てこない。
恋人がいるはずの人間のデータとは思えない。まるで、朱音が俺の生活に“書き加えられた”存在であるかのように。
ふと、パソコンのゴミ箱にある未開封のフォルダに目がとまった。
中には、音声ファイルがひとつだけ。
再生すると、雑音のなかに誰かの囁き声が混じっていた。
「……維持は困難……干渉を減らせ……彼が気づいてしまう……」
まただ。あの声。
前回と同じ、男女の区別のつかない、耳元でささやくような異質な声。
再生バーを巻き戻しているとき、ふと画面が乱れた。映像ファイルではないはずなのに、液晶の中央に何かが“映った”。
それは、人の顔だった。
モザイクのように歪んでいて判然としないが、どこか朱音に似ていたような気がした。
画面はすぐに元に戻り、ファイルも自動的に削除された。
動悸がする。世界が、少しずつ軋んでいる。
俺の記憶の中には、朱音と過ごした時間が確かにある。笑い声、会話、手の温もり、ベッドでの寝息。
でも、現実の“記録”には、朱音は存在していない。
昼過ぎ、朱音は買い物に行くと言って家を出た。
そのとき、俺は決意していた。
彼女の部屋――寝室のクローゼットを開ける。
そこには、服が並んでいた。化粧品も、スリッパもある。だが――すべてが妙に「新品」だった。使い込まれた気配がない。
生活の痕跡が、どこにもない。
彼女が確かにここにいたはずなのに。
夕方になっても、朱音は帰ってこなかった。
俺は、日記を広げてページをめくった。
【朱音、風邪をひいたらしい。今日は家で安静にしている。】
【朱音と映画を観た。ホラー映画は苦手らしい。】
何度読み返しても、そこには彼女の痕跡がある。
でも、記録媒体には、何一つ残っていない。
そして、思い出す。
数日前、日記を書こうとしたとき、ふと手が止まったあの瞬間を。
「これ、本当に俺が書いたか?」
まるで、日記そのものが、俺の記憶を“補強”するために存在しているかのように思えてきた。
まるで――誰かが、俺に朱音という存在を信じ込ませようとしているように。
リビングに座って、俺は、静かに目を閉じた。
鼓動の合間に、誰かの気配が混じっているような、そんな音が耳の奥で揺れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます