第3話 罪状

 大した人生では無かったように思う。

 さして裕福でもない家に生まれ、一応そこそこ勉強して、奨学金で借金を背負いつつそれなりに良い大学には入ったものの、時は正に大絶賛不況中。

 焦って就職しても無駄だと早めに見切りをつけて、幸いにも成績優秀だったため奨学金の延長にも成功し、一旦大学院に滑り込んだ。

 どういうわけかドクターコースに進んでしまった私は、なんとなく興味を持ってやっていた粘菌の研究で一定の成果を上げ、論文が認められ、一応は准教授のポストを与えられるまでにもなった。

 学問の世界で生きることにはなったものの、それからはあまり目立った評価も立たず、ただポストにしがみついて日々を過ごし、気がついたら年老いていた、という感じだ。

 老齢期に入って、流石にこのまま大学に居続けるわけにもいかないだろう、と遅ればせながら後続に席を譲り、研究室の処理をその者に任せて、悠々自適、とは言えないものの、のんびりとした老後を過ごしていた、はずだった。


 気がつけば辺り一面真っ白な世界。

 自分の身体を見下ろしても何も見えず、ただふわふわと浮いているような、横たわっているような、はたまたぐるぐると回っているかのような、どうにも定まらない感覚に包まれていた。

 そこではた、と悟った。これは、死んだのではないだろうかと。

 死というのは無である、と思っていたので、意識があるというのは面妖な事である。意識というのは脳が作り出す記憶と記録と信号によるものであり、その脳が機能を止めてしまえば、それは何も考えられず、感じないもののはずである。

 しかるに、私は今ここにいる、という事を認識している。まさか魂などという非科学的なものではあるまい。そういったものが存在する可能性は限りなくゼロに近い、というのが現代人の一般的な認識である。

「まぁ、そうですね。あなたの意識は現在、脳という器官によるものではなく、記録された情報の集合体としてその形を成しています。言わば、今のあなたの思考は記録に根ざしたもの、と言えるでしょう」

 誰だろうか。私の問いに答えるのは。

 その話が正しく、私が仮に死んでいると仮定した場合、その情報の集合体に語りかける者というのは。

 死者に語りかけるのは、フィクションの世界であれば降霊者か、死神か、或いは閻魔か。

「そのどれかと言われれば、まぁ、閻魔様に近いでしょうかね。もちろん、私は赤ら顔の裁判官などではありませんが」

 なるほど、閻魔大王。死者に裁きを下す死者の世界の選別者。

「正確には違いますが、あなたの場合、そういった認識で構わないでしょう。どうですか、私の姿が認識できますか」

 閻魔大王、と言えば、王笏のようなものを持った赤ら顔の鬼のような存在だ。そういう存在が、この目の前、いや、目が無いのでわからないが、眼前の者の事なのだろう。

 そう認識すると、ぼんやりとその存在が形を作るのが分かった。

「……これがあなたの閻魔大王に対する認識ですか?」

 目の前に現れたのは、いや、多分最初からそこにいたのは、上下をビシッとしたダークスーツに身を包んだ、いかにもやり手のサラリーマン風の男だった。

 髪の毛をオールバックに纏め、小脇に黒光りする本革製のビジネスバッグを抱えている。

 胸には水色のストライプ柄のハンカチーフが覗いており、神経質そうな縁無しメガネの下では、呆れた表情の彼の眼光がこちらを見据えている。

「はあ、いや。閻魔様といえども、多分役人なのではないかと。上にお釈迦様だとか色々いると聞いた覚えがあるので」

 声が出た。どうやらここはそういう空間らしい。認識が形となる空間、という事だろう。

 そう思って意識すると、自分の身体がぽんと発生するのが分かった。年老いた頃の姿ではなく、大学生時代の、まだ若々しい、けれど相変わらず冴えない風体の自分。

「理解が早くて助かります。ええ、そうですよ。私は所謂閻魔では無いですが、まぁ、死亡した思念情報体の前に現れ、その内容を告げるのが仕事ですから。その点では死神と言えない事もないですかね」

「そうですか。それで、私は地獄ですか?天国ですか?そのようなものがあるとは思えませんが」

 無いのである。どこを探してもそんなものは無い。死ねば無であり、ただそれだけだ。なのに、何故私は今ここにいるのだろうか。そもそもここはどこだろうか。

「そうですね、天国も地獄もありません。死んだ人間は何も無くなります。無です。よく分かっていらっしゃる」

 常識である。死後に意識があると考えられていたのは、死ぬのが怖い人たちの想像である。

「そうです。死後は普通、何も無くなります。それを救済だと言う人もいれば、恐ろしい事だと考える人もいます。昔は後者が多かったのですが、最近は違うようですね」

「はあ。社会が成熟してくると、生きている方が辛いと思う人が増えますから。死因に自殺が増えてくるのはそのせいでしょうね」

「全く迷惑な話です。まぁ、単なる自殺程度では上位存在たる私たちが出張ってくる必要などないのですがね」

 どういう事だろうか。私は死んだのだろう。一体どういう状況で死んだのだろうか。

「一応説明しておきましょうか。あなたは買い物に出ようと玄関を出た所、足を滑らせて頭部をマンションの廊下の手すりに打ち付けました。まぁ、骨が脆くなっていたのですね。頭を打ってそれっきりです」

 そうだったのか。道理で記憶が無い、というか、今の情報体とかいう状態であれば記憶があっても無くても一緒のような気がするが。

「あなたの生前の脳を情報体として構築しているのです。覚えていなくて当たり前です。しかし、学者さんというのはいつもこんな感じなのですか。随分とどうでも良い事を深掘りして考えるものなのですね」

 どうでも良いだろうか。いや、一応自分の死因は気になるのではないだろうか。

「そちらではなく、情報体と記憶に関しての事です。まぁ、いいでしょう、あなたはあなたが他の死者とは違う、という事を認識したはずです。なぜだか分かりますか」

 喋るのが急に億劫になった。他の人間と違う、というのはつまり、閻魔だか死神だかのこの存在に裁かれなければならないような事を、私がしたとでも言うのだろうか。

 自慢ではないが、私は人畜無害をモットーにして生きてきた。

 それこそ研究対象であった粘菌のように、まぁ、邪魔だけどいてもいなくてもどうでもいいし、邪魔なら掃除すれば良いだけだ、という、そういう地味な生き方をしてきたつもりである。

「確かに、あなたはあなたのいた環境においては地味な存在でしたよ、ヒロシ・オオトリさん。小中高と公立の学校を進み、大学ではそれなりの成果を残しつつも、教授までには至らず、細々と粘菌に関する論文を上げてはその場所に留まり続けた。研究室に入ってくる学生も少なく、助手も一定期間ですぐにやめて出ていく。正しくあなたは大学にぶら下がった、地味な存在でした」

 それの何がいけないのだろうか。たしかに長々と准教授の地位にしがみついていたのは申し訳ないが、学者というのはポストが無ければ食えないのである。

 学生に講義をして、研究室で卒研を通してやり、事務に研究費の申請を出す。無駄とも思われる事はあるが、それを言ったら私よりも迷惑な生き方をしている人は沢山いた。

 それこそ地獄の釜などすぐに一杯になってしまうほどに、悪い人はいくらでもいたのだ。今更私の地味な人生が裁かれなければならないとは思えないのだが。

「生き方に関してはそれで良いでしょう。良いとも言えず、悪いとも言えない。そもそもあなたは遵法意識が高く真面目な、人としては極めて善良な人でした。享年88歳までギャンブルの一つにも手を出さず、タバコもクスリもやらず酒にも溺れていない。女にすら手を出さず、死ぬまで童貞だった事もその生真面目さを現していると言えるでしょう」

 余計なお世話である。自分が童貞な事とここにいる事と、一体何の関係性があるのか。

「あなたの人となりをあなた自身が主張したから、同意したまでですよ、ヒロシさん。ですがね、人というのは、時折自分の意識していないところで大きな罪を犯しているものなのです」

 意識していない所で。

 確かにそれはあるだろう。

 電車に乗っていて、迷惑だなという乗客を沢山見た。けれど、かれらは全て、それが迷惑な事だとは認識していなかった。それが悪いことだと気がついていないのである。

 そう考えれば、私も同じような事を他者にしていた可能性はある。いや、きっとしていただろう。ただ、それがそこまでの罪になるかと言われれば。

「もちろん、そんな濡れた傘をたたまないだとか足を広げて座席に座っているだとか乗降口付近に陣取って乗り降りを邪魔するだとか、そういう小さな事ではありません」

 では何だと。いちいち回りくどいではないか。

「回りくどいのはあなたがそうだからですよ。話を脱線させるあなたの思考パターンが悪いのです。いいですか、あなたにもう耳はありませんが良く聞いてください。あなたは、あなたのいた世界で、歴史上において世界一の大量殺人者になりました」


「は?」

 大量殺人者だと。私がそんなだいそれた事をするはずがないじゃないか。

「そうです。あなた自身が直接した事ではありません。ですが、あなたがその引き金を引いた事に変わりはありません」

 馬鹿な。コケて簡単に死ぬようなよぼよぼの老人に、そんな事ができるはずがない。よしんば私が若い頃の話だったとしても、それならばとっくに現世で裁かれてくくり首だ。死刑制度はまだ残っていたはずだ。

「あなたの研究していた粘菌ですが、最後はどのような実験をしていましたか?」

「それは。粘菌の変異性についての研究で、菌類に寄生するバクテリオファージを」

 まさか。

「そうです。粘菌を土台とした細菌類に寄生するウィルスの培養を行っていたあなたは、その変異性に目をつけて次の論文の材料にしようとしていた。シャーレと温蔵庫の中で育成されていたそれは、あなたの勇退後にそのまま残され、後任に引き継がれた」

 そうだ、確かにそうだった。ただ、あれは。

「後任のミズタニ君には、きちんと焼却処分するようにと伝えたはずですが」

「ですが、それは成されなかった。彼が忘れていたのか、前任の研究に興味が無かったのかは分かりません。兎も角、書面にも残っていなかった為、彼はその処分をしなかった」

 馬鹿な。あれほど言ったではないか。複数の粘菌によるバイオフィルムに包まれた状態でのウィルス変異は予測がつかないから、くれぐれも密閉してから焼却処分するようにと。

「結果、あなたが引退して数年が経ち、あなたが死んだ直後、その温蔵庫は中身が入ったまま廃棄されました。電源が引っこ抜かれ、運ばれる途中で一部が大学の敷地に落ちた。トラックで埋立地に運ばれる途中、どうやら中古品の回収業者の手にも渡ったようですね。そこから、中のものに頓着しない業者が一般廃棄物としてゴミに出し、およそ三箇所から同時に拡散した」

 馬鹿な、そんな、そんな奇跡みたいな、悪夢の確率があって良いものか。

「確率はまぁ、確率ですから。この場合はダブルロックの危機管理が足りていなかったという事になるのでしょうね。一つは処分の確認を怠った事、もう一つは、何が発生するかわからないものを研究材料に選んだこと。サンプルは身近な枯草菌から採取したようですが、まさかそれが最悪の変異を起こすとは」

 分かるわけがない。これは不可抗力だ。なのに、大量殺人者だと?一体私が死んでから、世の中はどうなってしまったのだ。

「そうですね、一応、説明しておきましょうか。人間の裁判所でも最初に訴えの内容が読み上げられるようですから。まず、大学から拡散した未知のウィルスは、7日間の潜伏期間を置いて一斉に発症しました」

 怖い。内容を聞くのが恐ろしい。

「症状としては、最初は息苦しい肺炎のような症状。その後、急激な下血が続き、一週間も経たないうちに9割の人が死亡します。ウィルスは人体内で細胞膜を利用した特殊なバイオフィルムを形成し、既存の薬剤や精製されたワクチンも効果がありませんでした。あっという間に世界中に広がり、あなたの国の優秀な研究者チームが治療薬を開発し終わる二年間の間に、世界中、ほぼ全ての国で、およそ9000万人の人がそのウィルスによって亡くなりました。そう、二年間で9000万人です」

 ありえない。

 自分が中年の頃に広まったウィルスによる世界的疾患だって、最盛期でせいぜい一年間に1500万人ほどだ。その、三倍の数を、私が、殺したと。

「あなたの祖国は世界中から叩かれました。優秀な研究所の人間が特効薬を開発しなければ、あなたの祖国は世界中から爪弾きにされ、国がバラバラになっていた可能性もありますね。原因が突き止められた後、大学は消滅しています。まぁ、世界一の大量殺人者を育てた大学など、存続できはしないでしょう」

「……甥は。ジュンはどうなりました」

 私の身寄りは、弟の息子一人である。

 別々に暮らしてはいたものの、弟夫婦が亡くなった後も時折連絡は取り合っていた。多分、自分の葬儀では彼が喪主となったはずだ。

「世間のバッシングに耐えられなくなって自殺しましたよ。遺書にはあなたへの恨み節が書かれていたそうです」

 白い世界が急に真っ黒になった。何も見えない漆黒の闇の中、何故かダークスーツ姿の男だけが浮かんで見えている。

「まぁ、そんなわけで、あなたの事を他の死者同様に、無へと還すわけにはいかなくなりました。知性ある存在でこれだけの同族を殺した者というのは、どの世界を見渡してもそうそう見当たりません。先程も言いましたが、無はただの無です。救済でも恐怖でもありませんが、あなたの場合、それが救済になると上が判断しました。よって、あなたには罰が与えられます」

 罰、地獄だろうか。永遠の責め苦を与えられるとか、そういう事だろうか。

「いえいえ、違います。我々の目的はですね、別に罪を悔い改めろとかそういうものではないのですよ。それはあなたがたの尺度です。私たちは、世界のバランスを取るのが仕事なので」

 世界のバランス、というと。

 人が死んだから、その分人を救えという事だろうか。医者だってそんな事は不可能だろう。

「そうですね、それもあなた方の尺度です。我々の尺度では、あなたが贖罪を得るに必要な事は、。それだけです」

 相応の、人生を、生き延びる事。

 まるで意味が分からない。要するに、生きろという事か。既に天寿を全うしたこの私に。

「その通りです。あなたの罪は罪。ですが、そこに不可抗力な部分があったというのは事実でしょう。あなたが死んでから進んだ事実に関して、あなたは何らその対策を講じるための余裕が無かった。つまり、贖罪しょくざいの機会が無かったという事です」

 贖罪。

 果たしてそれは私に本当に必要な事なのか。

「無論です。短期間でこれだけ多くの生命を、たった一人の人間が死に至らしめた事例はまずありません。それをもたらしたのが例え意思なき遺伝子の存在であろうとも、意思を持っていたあなたにであれば防ぐ手段はありました」

 後付けだ。後からで言えば何とでも言える。謂わば、上から目線の押し付けがましい罪の意識。新興宗教が良くやる手口だ。

「あのような欲望にまみれたものと同じにしないでいただきたいですね。何度も言いますが、我々の目的はバランス調整です」

「その、バランス調整では、私が生きることが贖罪になると?」

「その通りです」

 まるで意味がわからない。この存在の『バランス』というのがどういった基準に基づいて得られているものか、統計に浴した私にも全く分からない。

「数値は、あなたがたの知るもので計れるものではないのですよ」

「つまり、あなたがたの基準で私を裁くと」

「最初からそう言っております」

 独善だ。理不尽だ。このようなこと。

「そう、あなたがたの社会では理解できないでしょう。それが、あなたがたの存在を超えた我々の摂理だという事です」

 ふざけるな、ふざけるなふざけるなふざけるな!

 弁護も裁判も何も無しに、一方的に私に罰を与えるというのか。

 それは、それこそは傲慢ではないのか。

 知性ある存在は確かに傲慢になる。だが、だが。同じく知性ある存在の意見も聞かずに、一方的に決めるのが、それが上位存在たる貴様たちの知性なのか!

「……確かに、それは一理あります。我々は生命の根源たるものを管理する立場のもの。先ほども言いましたが、あなたに不可抗力な部分があったことを認めましょう」

「それで」

「それです。あなたが大量に命を奪った存在である事は変わりがありません。ですが、そうですね。情状酌量というのでしょうか。あなたにはそれがあります。極めて小さいその火種ですが、それをあなたに与えましょう。あとは、自分で何とかしてください。あなたに与えられる次の人生は、過酷なものです。ですが、決して諦めないように。刑期が伸びるのは、あなたにとっても良くない事でしょうから」

 一方的に、有無を言わさず、その存在は私をこの世界に放りだした。

 極めて貧しい国の、極めて貧しい家の、いらない子として。

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