3

 違和感があった。俺は確認せずにはいられなかった。

「身体を捨てるというのは、より若い身体に移るために捨てるという意味で仰っていますか?」

「いや違う。新しい身体はいらない。肉体から解き放たれたいんだ」

 なんとかして眉間に皺を寄せそうになるのをこらえた。どうも普通ではない。恐らく俺の職分を越えた相談だ。しかしとにかく話は聞いてみなければならなかった。

「詳しくお話を伺いたいので、よろしければお掛けになってください」

 男は穏やかに椅子を引いて座った。外見に比してその挙措があまりにノーブルだったので、一体どういう出自の男なんだろうと、普段仕事をする上ではしない詮索までしそうになった。

「僕はことばに興味があるんだ」

 ポツリそんなことを言ってくるが、俺の中で話がつながらない。男は思いがけず理知的な眼差しで俺を見てから、話を続ける。

「身体がなくなった先のことばに」

 ようやく話がつながってきた。しかし、つながったところで、よく分からないことに違いはなかった。なんと答えたらいいのか迷って、辛うじて「どうしてです?」と言った。この時点で俺の普段の接客態度は跡形もなく崩れ去っていた。

 男は人差し指を机に置いた。滑らかな黒い板面に男の人差し指が映り込んでいる。

「君に基本的なことを教えよう。

 1.この世界は二つある。僕らが普段使うことばによって見ていると思っている世界と本当の世界が。いや、本当は、本当の世界しかないのかもしれないが、僕らはそのカオスに耐えられないので、ことばによって整序された世界を作り出しているのだ。

 2.普通の人間はことばによって整序された世界に生きていると思い込んでいるが、魂はカオスにある。

 3.カオスは人間が通常操ることばでは記述できない」

 俺は銀行のテーブルを思い浮かべていた。テーブルの下に通報ボタンがついているやつ。あれがここの机にもあればよいのにと思った。俺は男が言うことの理解をほとんど拒んでいた。だが、男は机の板面に置いていた人差し指を部屋の隅に向けた。

「君は分かっているはずだ」

 男が指差す先には半透明のピンク色のカエルが機嫌良さそうに座っていた。俺は思わず男とカエルを交互に見た。

「あれが見えるんですか」

「僕には見えない。だが君に見えていることは分かっている。僕や君みたいな人間はその実大勢いる」

 男は背もたれに背中を預けた。

「僕にも見えるなら、わざわざ肉体を捨てるまでもないのだが」

 そう言ってズボンのポケットからタバコの箱を取り出そうとして、周りを見てから渋い顔をして仕舞った。机の下で貧乏ゆすりをしていた。

「身体を捨てたら、ことばは変わるのでしょうか」

「多分変わる。恐らく通常のコードがいらなくなる」

「しかし脳は残るわけでしょう」

「脳もいらない。要するにゴーストになりたい」

 そこで俺は立ち上がった。無性に腹が立っていた。

「からかっていらっしゃる」

 男は相変わらず理知的な眼差しで俺を見上げていた。椅子に深く腰かけたまま、動じる様子もなかった。

「真面目に言っている。上の人間につなげ。金はいくらでもある。何にでもサインしてやる」

「どうしてそこまで」

 恐らく俺は一周回って青ざめていたのだろう。男はニヤリと笑って、ポケットからタバコの箱を取り出した。そして紙タバコを一本咥えると、俺が止める暇もなくライターで火を点けた。

「抗いようがないからだ」

 タバコの煙を感知したスプリンクラーが俺と男に猛烈な勢いでシャワーを浴びせかけた。

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