グレープフルーツの黄昏
夜の帰り道、ふと、自分が“何者でもなくなっていく”ことを実感する。
会社の制服――見慣れたスーツ――は、今日も誰かのために着て、誰かのために脱いだだけ。
定年まであと数年。
役職も、責任も、少しずつ若い世代に引き継がれ、
誰かの「◯◯さん」ではなくなっていく自分が、静かに薄れていくのを感じる。
家に帰れば、子どもたちは巣立ち、妻とは長年の空気のような存在。
テレビの音が部屋に響くだけで、会話は必要最低限。
「お疲れさま」「ごはん、どうする?」
それだけで一日が過ぎていく。
若いころ、夢見たこともあった。
けれど、仕事と家庭のなかで、夢はすり減り、やがて“日々をきちんと生きること”だけが目標になった。
それが悪いことだと思わなかった。
でも――今は、何かが心の底でぽっかりと空いている。
その夜も、特に行くあてもなく駅前から裏通りに抜けた。
どこかに行きたいわけでもないのに、家にまっすぐ帰るのが惜しかった。
ふと目に入った小さな灯り。
《Bar 月灯》――月の絵がやわらかく揺れる看板。
静かに扉を開けると、温かな木の香りと柔らかな照明が迎えてくれた。
カウンターの奥にいるマスターが、いつものようにやさしく微笑む。
「いらっしゃいませ。お疲れさまですね」
「……ええ、なんだか、今夜は帰りたくなくて」
「何をお作りしましょう?」
「温かいものを。
甘すぎない、少し苦味のあるものがいいです」
「かしこまりました」
しばらくして差し出されたのは、淡い黄色のグラス。
カモミールティーに、しぼりたてのグレープフルーツと少しだけリキュールを垂らしてある。
一口含むと、カモミールのやさしい香りと、グレープフルーツのほろ苦さが、じんわりと心に広がる。
「最近、“自分がいなくても社会は回る”って思うことが増えました。
長く働いてきて、誰かのために何かをしてきたつもりだったのに、
気づけば、自分が誰のためにここにいるのか分からなくなってしまって」
マスターは黙って頷く。
「家でも、昔ほど会話はありません。
子どもたちも、いまは自分の人生で忙しい。
……私は、これからどうやって生きていけばいいんでしょうね」
グラスの底をゆっくり見つめる。
カモミールの花が、淡く光のなかで揺れている。
「“誰かのために”という思いは、とても素敵なことです」
マスターが静かに言う。
「でも、“自分のために生きる”ことを、これから少しずつ始めてみてもいいのかもしれません。
自分が心地よいと感じること、やってみたかったこと、
そういうものを、ゆっくり探してみてください。
きっと、夕暮れのあとの夜にも、小さな光は残ります」
「……自分のために、ですか」
「ええ。今まで積み重ねてきた日々のなかに、あなた自身の時間もあったはずです。
その記憶や想い出が、これからのあなたの“灯り”になるのだと思います」
私は、そっとグラスを飲み干した。
心の奥に、苦さとともにやわらかな温かさが残る。
「帰ったら、昔好きだった映画でも観てみます。
何十年ぶりかに――自分だけの夜を過ごしてみたくなりました」
「素敵な夜になりますように」
バーを出ると、夜風が静かに肩を押した。
街の灯りは、今夜もどこか優しかった。
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