灯り文庫 ―澪と猫の本の旅―
@Lino005
第一話「灯りの中のブックカフェ」
引っ越してきたばかりのこの町には、夜になると空気が変わる気がする。
風の音がやわらかくなって、草の匂いが濃くなって、心が少しだけ素直になる。
今日もなんとなく歩きたくなって、古びた小道を選んだ。昼間には通らないような裏路地。
民家の明かりがぽつぽつ灯る中、ふと視界の端を、ふわりとした影が横切った。
猫だった。
白と黒の入り混じった、毛並みのきれいな猫。こちらを見上げると、しっぽを一度ゆらして、スタスタと歩き出す。
「……待って」
呼びかけると、まるで聞こえていたかのように足を止めた。振り返って、まっすぐ目を合わせてくる。
その瞳に、なぜか抗えなかった。
猫は曲がり角をいくつか曲がり、小さな石畳の坂道へ。澪もついていく。
そして最後にたどり着いたのは、木造の一軒家だった。
入口の上には、柔らかなランプの灯り。ドアの上に掛かっていた小さな木の看板には、こう書かれていた。
《灯り文庫》
ドアの隙間から、コーヒーと紙の匂いが漂ってくる。
猫は玄関マットの上に座り、じっとこちらを見上げていた。まるで「さあ、入って」とでも言うように。
カラン、と小さな鈴の音と共に、澪は扉を開けた。
中には木の本棚が並び、カウンターの奥では一人の男性が本を読んでいた。
黒髪に眼鏡、白シャツにエプロン。静かな空気をまとったその人は、ちらりと澪を見ただけで、また視線をページに戻した。
「いらっしゃい」
低く、穏やかな声だった。
猫は先に入り込み、慣れた様子で棚の上へ跳ね上がる。そこで一度、くるりとまわって香箱座りをした。
「すみません、突然……猫が、勝手に……」
「灯(とも)です。うちの猫です」
「……あ、名前……?」
澪が戸惑っていると、猫の“灯”がぴょんと棚から降りた。すると一冊の文庫本が、棚の端からするりと滑り落ち、澪の足元に。
「……?」
しゃがんで拾い上げると、それは澪が昔、大切にしていた物語だった。ずっと忘れていた、けれど間違いなく心のどこかにあった本。
猫が、見上げている。まるで「今のあなたに必要な本だ」とでも言いたげに。
「気になるなら、座って読んでいってください」
黒川と名乗った店主は、それ以上何も聞かず、ただ湯気の立つカップを一つ、カウンターに置いた。
扉が閉まると、外の音がすっと遠のいた。
本の中と、珈琲の香りと、猫のまなざしだけが、今の澪を満たしていた。
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