第29話 限界(2)
バシャッ!!
頭から冷たい何かを降りかけられたみたいだった。圭子がバケツを持っている。水だ。
5月中旬で暖かくなってきているとはいえ、とても冷たい。思わず両手で肩を抱いて、身震いする。前髪や制服が肌に張り付いて、気持ち悪い。
楓恋たちがそんな私を見て、ゲラゲラと笑っている。
目頭が熱くなるが、堪える。ここで泣いてしまったら、プツンと何かが切れて二度と修復されないような気がして。
昼食中のクラスメイトたちに視線を移す。
皆、私を見ている。
憐みを含んだ目で、私を見ている。
「さすがにヤバくない?」「ちょっと可哀想だよね」なんていう囁きも聞こえてくる。
だけど、それをはっきりと言う人は一人もいない。
当然だよね。だって、“やられる方にも理由があるから”でしょ?
私がこんなことをされるようなことをしたからでしょ?
“だから私は悪くない”んでしょ?
分かるよ、その思考回路。私もそう思っていたから。そうやって自分たちを正当化して、“次の対象”にならないようにしているんだよね。
――――だけどね。
「……助ける気がないなら、そんな目で私を見ないでよ!!」
クラスメイトたちが、目を丸くしている。
ずっと溜め込んでいた叫びが、爆発するみたいに口を付いて出たみたいだった。
自分だって、ずっと向こうの立場だったのにね。どの口が言っているんだろうね。
でも、これくらいいいでしょ?
私は一応、今は被害者なのだから。
楓恋たちを押しのけて、私は教室を飛び出した。思うように動かない脚を必死に動かして、教室を離れる。
出来るだけ遠くへ。
もう、あんな場所にはいたくない。
でも、昼休みが終わったら戻らなければいけない。
生き地獄に、戻らなければいけない。
嫌だな。
いっその事、家に引きこもってしまいたい。
しかし、それは許されない。私が許せない。
一度ドロップアウトしたら、元に戻るには時間がかかる。いやむしろ、戻るなんて無理なのかもしれない。
せっかく今まで必死で勉強して、憧れだった高校にも入れて、目標に向かって順調に歩んできたのに、こんな所で立ち止まりたくない。私は医学部に進学して、お父さんのクリニックを継いで、条件の良い男性と結婚して、幸せを手に入れる。ずっとそのつもりで生きて来た。
でも、それは難しいようだ。強行突破するには、あと2年も耐え続けなければならない。そんなの無理だ。身体も精神も、もたない。
転校しようか?
いや、そうなると両親に事情を話さなければいけない。きっとお父さんが学校に怒鳴り込む。それでも結局私が悪いことにされるんだろうな。面倒くさいな。嫌だな。
――――じゃあ、いっその事、この世界からドロップアウトしてしまおうか。
不意に浮かんだ考えに、私は驚いた。
まさかこの私が、こんなことを思うなんて。信じられない。
同時に、私の中のある記憶が再生された。
中学二年生の時、他のクラスの男子生徒が自殺した。
私がそれを緊急で開かれた学年集会で知った時、理由を言われなくても、なぜその子が死んだのか分かっていた。
前に何度か、廊下でその子が数名の男子生徒に暴力を奮われている現場を見ていた。「死ね」「ウザい」そんな言葉を投げつけられながら、殴られ、蹴られていた。
廊下を歩く生徒たちは、それを見ながらも誰も注意しなかった。私も、横目で傍観しながら、彼の横を通り過ぎた。
仕方ない、相手は男子だし、私では力じゃ勝てないし。
そんな言い訳をしながら、私は背を向けた。
大丈夫。他のクラスのことだし、きっとクラス内で勝手に解決する。そう言い聞かせた。
だけど、その子は死んだ。殺したのは、明らかに“私たち”だ。
あの時、私が注意していれば……いや、それは無理でも、せめて先生に密告していたら、何かが変わったかもしれない、そんな後悔が、脳内を支配した。
体育館の壇上の校長先生が、「黙祷」と言った時、近くでクスクスと笑う声が聞こえた。
私は驚いて、声のした方を見た。
そこには、亡くなった男子生徒に暴力を振るっていた生徒たちがいた。
何が可笑しいのか、堪え切れないといったふうに、クックッと笑い続けている。
私は目を疑った。
あんたらのせいで死んだんじゃないの? 普通、反省するでしょ?
あの子は、お前らみたいなクズのせいで死んだの? こんなことってある?
その時、私は思った。あんな奴らのために死ぬなんて、なんて馬鹿なことをしたのだろう、と。
それは、今の私にも言える。
他人を傷付けて笑っているクズ共のために、私が生きるだの死ぬだの考えることなんてない。もし私が死んだら、楓恋たちもあの男子生徒たちみたいに笑うのだろう。
でも、これ以外にこの地獄から抜け出す方法がある? ないよね。引きこもるのは嫌、耐えるのも無理、転校も無理なら、もうこの方法しかないよね。
全身ずぶ濡れで廊下を走る私を、すれ違う生徒たちが驚いた顔で見つめて来る。
それを押しのけて、私は3階へ向かう階段を駆け上がる。
もう嫌だ。
何も考えたくない。
身体がだるい。
頭が重い。
もう、何もかもどうでもいい。
もう――――疲れた。
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