第9話 完璧な敗北

 剣を持つ手から力が抜けていく。指先が痺れてくる。なんとか力を逃すまいともがくほどに、身体は言うことをきかなくなっていく。まずい、剣を落としてしまいそう。それでも私はヴィオから目を離さず、次の動きを逃すまいとした。ヴィオがゆっくりと私の方へ歩いてくる。さっきと全く表情を変えずに微笑んでいた。それで余計に先が読めなくて、焦る。


 彼は私とすれ違う位置にまで来ると、歩みを止めた。間合いに入っているのに私は動けないでいる。こんな至近距離に相手が居るのに、一振りも出来ないなんて。そんなこと……たかが名前を一言呼ばれたくらいで? 次は何をする気……? 手刀でもやられたら完全に負けだわ。それぐらいもう、力が入らない。一歩でも動けば倒れてしまいそう。


「剣、離そうか」


 耳元にかなり近いところで囁かれたその言葉に、私は抗えなかった。優しいのに、逆らえないその声色。低くて深みのある声色が私の何かを崩していく。痺れのような脱力が更に身体を襲った。だめだ、もう身体を制御出来ない。勝手に指の力が解けてしまう。


「……ぁ……っ」


 乾いた木の音が無様に地面から聞こえてきた。負けが確定した。でもせめて、せめて地に膝をつけてしまうような醜態は晒したくない。私は自分自身の身体を残る力で抱きしめた。そんなことをしたところで、小刻みな震えが止まらない。それに身体が熱を帯びているのが分かる。身体の奥の方に落とされた熱源から蝕むように湧いてきているような。


 ヴィオリーノはさっきと同じ声色で、ゆっくりと、撫でるように、私を見下ろして言った。圧倒的に冷酷なのに優しい眼差しで。


「俺の勝ち、だね」


「……っ!!」


 完全に足の力が抜けてしまった。私は崩れるようにその場に座り込んでしまう。恥ずかしさで顔が上げられない。それに、身体がどんどん熱くなってくる。苦しい。この熱から逃れたい。でも一方で、


 囚われたまま、熱さの底へ引きずり込まれて溺れきってしまいたいような……


 相反する感覚が私の思考をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。







「あー……大丈夫?」


 いつものヴィオリーノの声だ。勝負の時の声と全く違う。


「……負けたわ」


 それしか言えなかった。ヴィオは私の目線まで降りようとしゃがむ。でも、私は顔を上げられない。だって、絶対に私は今、顔が真っ赤だから。身体の反応が抑えられなくて、恥ずかしくて、悔しくて。


「立てる?」


「……やだ」


「え?」


「自分で立つから……っ、見ないでよ……」


 ヴィオリーノが一瞬動きを止めたのが見えた。それから困ったように立ち上がって、その場をゆっくりと行ったり来たりしている。顔を上げられないから、どんな様子なのか全てはわからないけど。それよりも私は自分の身体を落ち着かせたくて、何度も深呼吸を繰り返す。やたらと大きく聞こえる自分の鼓動が気になってしょうがない。


 繰り返しているうちに、身体の震えは収まってきた。ようやく自分の腕を解くことが出来る。手が汗でじっとりとしていた。額にも汗がにじんでいるのが分かる。


「……落ち着いた?」


 ヴィオがぴたり、と歩くのを止める。私も身体の震えが取れたことで、ようやく冷静に考え始めることが出来ていた。あの勝負は一体なんだったのか……ただ一言、名前を呼ばれただけで、どうして。


「なんだったの……何をしたの?」


 私はここで彼の顔をやっと見ることが出来た。ヴィオリーノは困惑した微笑みを浮かべている。まだ立ち上がれない私と視線を合わせるために、自分も演習場の土の床に座り込んだ。


「俺さ、『魔力調律師』ってやつに興味を持ち始めていて」


「『魔力調律師』?」


 聞いたことが無い。魔力、と、つくからには魔法に関係があるのだろう。


「あんまり誰もやっていない職業なんだけど、適性があるって言われて。時々話を聞きに行ったりしててさ」


 そう言ってから、ヴィオは一旦間を置く。


「この職業って、音を媒介に魔力を調整したり増幅させたりすることが出来るらしい」


「音で?」


 そんなことが出来るなんて、本当だろうか? いや、今私がまさに体験したことでは……


「音色を操作することで、載せたい効果を制御出来る。そしてそれを音で伝えられるんだ、って」


 まだよくわからないけどね、と付け足してヴィオはふわっと微笑んだ。先ほどのような獲物を狙う光はない。そんなものがあったとは思えないくらい。


「で、ちょっと試してみたってわけ」


「試されたの……私」


「ごめんね、まさかあんなに効果があると思わなくて。もうちょっと緩いつもりだったんだけど。やっぱりちゃんと修行を積まないとだめなんだなぁ」


 私はとにかく信じられなかった。彼がしたことは、確かに『攻撃』だった。物理的な攻撃ではなくて、まるで魔法のようで、でも魔法のように目に見えるものではなくて。耳に直接入ってきて身体を支配する……厄介な技術だと私は思った。事実、私は名前を呼ばれただけで、一歩も動けなくて、地に膝をつけてしまった。こんなの、もっとこの技が使える人が相手だったら……実戦だったら既に命を失っている。


「普通に魔法を使うのもな、と思ってね」


「……悔しいけど、完敗」


 そう言うしかなかった。それが現実。私は軍に入ってから初めて負けたのだ。ヴィオリーノはそれを聞いて、少しだけ困った表情を浮かべながら笑う。


「そうだね、俺の勝ち。で? なんか賞品でもあるの?」


「……考えてなかった」


「そっか。じゃあ……今度会ったときに酒でも一杯奢ってよ」


「わかったわよ……」


 やった、とヴィオは無邪気に喜んでいた。その姿に先ほどの得体の知れない雰囲気は全く無い。それよりも、こっちがもの凄く悔しいというのに、勝った喜びがあまりにも軽いのに腹が立つ。それだけ彼にとって簡単な勝負だったということがわかって、余計に悔しくなった。


「……呼び出して、悪かったわね」


「あ、こっちこそ。なんだか卑怯な感じでごめんね」


 ほんと卑怯だったわ。でも実戦じゃそんなことも言っていられないし。とはいってもやっぱり卑怯だと思ってしまう。私は何も言えなくなった。そのままふらつく身体を引きずって、ヴィオを置き去りにして自分の部屋へと戻る。あのあと、ヴィオリーノがどうしたのかは、知らない。


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