ワンコロと香辛料
──どこかで、ぴし、と枝を踏む音がした。 焚き火の炎が、微かに揺れる。
「……いま音が……」
アルネが体勢を低くして声を落とす。 タベルは鍋の中をかき混ぜながらも、耳だけをそちらに向けていた。
再び、ざり。 草をかきわけるような、湿った音。
タベルがゆっくりと顔を上げ──次の瞬間。
「ワンッ!!」
甲高い鳴き声が、闇の中から飛び出した。 アルネがびくっと肩をすくめ、跳ねるように立ち上がる。
「た、タベル逃げるネ! あれは──コボルトアル!!」
「……こぼると?」
「小型だけど、獰猛な群れ魔物アルね! 一匹だけならともかく、集団になると旅人を喰い尽くすネ!」
「そんなに?」
「危ないネ!」
そこへ、茂みの影ががさり、と動く。 続けてぬるりと現れたのは──
もこもこの毛皮をまとい、つぶれた鼻をひくひくと動かしながら、二足でとてとて歩く、灰色の小さな獣たち。 その瞳はつぶらで、耳はぴこぴこ動き、腹をぐう、と鳴らしている。
「……ん? ただの……かわいい生き物にしか見えねえが……」
タベルが訝しげに眉を寄せる。 ひときわ毛並みの良い一匹が、きちんと背筋を伸ばして“おすわり”している。
もう一匹は、鼻をぺちゃぺちゃと鳴らしながら、鍋をのぞきこもうとして前足をぷるぷると浮かせていた。
「な、なにしてるネ……あいつら」
「……めっちゃ鍋見てるな」
コボルトたちは一歩も近づかない。 ただ、鍋の前にぺたんと座り込み、尻尾をぱた、ぱたと振っている。 一匹は我慢できず、ちろりとよだれを垂らした。
意外とかわいい。
タベルはしばらく沈黙し、鍋の中のスパイス香と、灰色のもふもふ軍団を交互に見比めた。
横では商人のおっさんが、毛布にくるまりながら「こ、こんなことで死にたくない……」と震えている。 その視線の先で、コボルトたちは一斉に──
「ワンッ!!」
ぴしっと背筋を伸ばして、しっかりと声を揃えて鳴いた。
「……いや、これ絶対ただの犬じゃねえか」
「犬じゃないネ!! 魔物ネ!!!」
アルネが懸命に否定するが、タベルは真顔のままコボルトたちと数秒見つめ合ったあと、ゆっくりとしゃがみこむ。
「お前ら、腹減ってんのか?」
また「ワン!」と返事。 そして、待ってましたと言わんばかりに、舌をぺろぺろと出す毛玉たち。
「……こんな時間に現れて、鍋を囲んで座る魔物ってなんだよ」
「きっと腹が減りすぎて理性を失ってるネ!! 今は鍋に夢中でも、こっちが少しでも動いたら──」
「──腹ごしらえに夢中なやつは、案外理性的なもんだ」
タベルは火の前に戻り、ゆっくりと鍋をかき混ぜながら呟いた。 コボルトたちはそれを見て、まるで「いつまでも待つぞ」みたいな顔でおすわり。
「もうちょっとだ」
「ワン!」
まるで合図のように、一斉に吠える。 尻尾はぶんぶんと勢いよく揺れ、どこからどう見ても、“それ”は──完全に犬だった。
◇◇◇
──その頃、森の外れ。
「……あれ?」
木の上で姿勢よく腰かけ、魔界SNS画面をいじっていたエバリアが、眉をひそめる。
「そろそろバエバエな激しいバトルが繰り広げられるタイミングだけど?」
指でスライドし、空中に浮かぶ映像サークルをぐりぐり操作。 しかし、映っているのは……静かな森。煙。炎。鍋。
「鍋? えっ、なにあれ……料理……してない?」
映像を拡大。 真剣な表情で鍋を振るうタベル。 楽しそうに見守るおっさんとチャイナ服の少女。
その足元には──ぺたんと座ったコボルトたち。
まるで主人の帰りを待つ忠犬のような眼差し。
「……は?」
エバリア、ほんの一瞬フリーズ。
「あいつら何やってんのよ……!」
◇◇◇
「……いい匂いネ」
アルネとコボルトたちが、鼻をひくひくさせながら鍋のまわりに集まる。 タベルは最後に、指先でつまんだ種子状のスパイスを、軽く砕いて散らした。
「香りのバランスを整える。これで完成だ」
鍋を離れた瞬間、香りが空気を染めた。甘さ、苦味、刺激、そしてわずかに土のような温かさを含んだ匂いが、夜の森に広がっていく。 タベルにとっては懐かしい、けれどこの世界には存在しないはずの──カレーという料理の香りだった。
木皿を六つ並べると、タベルは鍋から静かにすくい、湯気を立てながら注いでいく。
「では……いただくネ!」
待ちきれなかったのか、アルネは木皿を抱え込んで、湯気の立つスプーンをひとくち。 次の瞬間、目を大きく見開いて固まった。
「──な、なんか……身体が目覚める感じネ! スパイスが舌にぶつかってくるネ!」
続けて、商人のおっさんも一口。眉を跳ね上げ、手が止まらなくなる。
「……なんですかこれは。ほんのり辛くて……香ばしいのに後からまた違う香りが……!」
「そういうもんだ。旨味に届くまでの道がいくつもある。スパイスってのは、主張しつつも支え合う」
コボルトたちも木皿を抱えて、しっぽを振りながら夢中で食べている。 アルネは「かわいいネ……」とこっそり撫でながらスプーンを止めず、タベルはそんな光景に思わず笑った。
「旨いもんの前じゃ、敵も味方も関係ないな」
そう言いつつ、タベル自身もスプーンを口に運ぶ。 じんわりと舌に広がる熱。遠い世界の記憶。空腹を越えたところにある、満たされた静けさがあった。
「夜中のカレーってのは理屈じゃねぇんだ。無性に食いたくなる。食えば目が覚める。明日、絶対後悔する。でも、それでも食う」
ぽり、と漬物代わりの干し野菜のピクルスを噛み、満足そうに息を吐く。
「……この味、忘れられないネ」
「同じものは、二度と作れないさ。素材も、配合も、火加減も、そのとき限りの偶然だ。それがスパイスの面白さだな」
「いやはや、あの町娘が“腕が立つ”と言っていたのは、てっきり剣のことかと……。まさか料理で命を救われるとは、一本取られましたな!」
おっさんはおどけたように言い、両手で腹を抱える。
別に面白くはなかった。
焚き火の残り火が静かに揺れている。 タベルたちはゆっくりと食事を終え、焚き火を片付け、馬車に乗り込んだ。 コボルトたちは名残惜しそうにしつつも、尻尾を振り、満足そうな表情でそれを見送った。
◇◇◇
夜明け前──。
タベルたちを乗せた馬車は、ゆっくりと隣町の門をくぐった。 眠りの中に沈む町並みを、薄く漂う朝靄が静かに包んでいる。
「ふぅ……無事ついたネ」
アルネが大きく伸びをしながらつぶやく。
「腹も満たしたしな。あとは寝るだけだ」
「本当にありがとうございました……まさか道中であんな料理を味わえるとは……!」
商人のおっさんは、感無量といった顔で、深々と頭を下げる。
「また機会があれば、ぜひ……!」
タベルは無言のまま、軽く片手を振っただけだった。 ひらり、と振る袖の動きに満足げなアルネが続く。
「で、次は何を食べるネ?」
「そうだな……次は甘いもん、行きたい気分だ」
「賛成ネ!」
「──だが、今日は寝る。二日も夜更かしちまった。お肌に悪いぜ」
小さな笑いとともに、二人は石畳の路地へと歩き出す。
朝陽が静かに町を染めていく。 その背を、やがて光が包み込むように照らした。
──香りは残る。 腹の奥に。 記憶の片隅に。 次の旅路へと続く、確かな痕跡として。
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