5: あのひのせんたく

「それじゃ、男子の中央委員は唯で決定。女子の中央委員を選ぶことになるが…話し合いでできるよな?」


「「もちろん」」


声が重なった瞬間、教室の空気がほんの僅かに揺れた。


凪の声は落ち着いていた。いつも通りの、凪だった。

一方で、れいの声は少しだけ弾んでいた。何かを楽しんでいるようにすら聞こえた。


「じゃ、二人でどうするか、話してくれるか?」


先生がそう言って席に戻る。

周囲の生徒たちは息を潜めた。注目が二人に集まる。いや、正確には、『あのふたりのあいだにあるもの』に。


れいが先に口を開いた。



「別に譲ってくれてもいいよ、凪」


「私はやりたいって思ったから手を挙げたの」



笑顔の裏側で、何かがきしんだ音がした気がした。



「そっか。じゃあ、ちゃんと決めよっか」


「うん。ちゃんと、ね」



ふたりは立ち上がり、前の方へと歩み出る。


その間、唯は自分の席から動けなかった。動いたら、何かが壊れてしまいそうで。見ているだけしかできない。見ているだけしか、許されない。


れいが振り返り、教室全体に向かって明るく言う。



「じゃあさ、せっかくだし、みんなの多数決にしない?」



教室がざわめいた。男子たちは目を見開き、女子たちは一様に表情を引き締める。


「え、それ本気で言ってんの?」

「人気投票じゃん」

「こわ…でも、見たい…」

「絶対荒れるやつ……」


凪は無言のまま、れいを見つめていた。


そして、ゆっくりと首を縦に振る。


「いいよ。そのほうが…公平だし」

「だよね。じゃあ」



「唯くん、よろしく~」



れいがくるりと振り返り、笑顔で僕を指さす。


「投票用紙、配ってくれる?」


それに凪も続く。

え、なんで俺に振るんだよ。


一瞬で、全員の視線が唯に集まる。

まるで、凪とれいの板挟みのように。

まるで、どちらを選ぶかはあなた次第ですと宣告されたように。


凪の目も、れいの目も、僕を見ていた。


どちらも、何も言っていないのに、言葉より強く問いかけてくる。


──君は、どっちの味方なの?


配られる投票用紙。


「凪」か、「れい」か。


僕は一枚ずつ、手を震わせながら紙を配っていった。

誰もが僕の表情をうかがいながら、何も言わずにそれを受け取った。


戻ってきた僕の手元にあるのは、最後の一枚の白紙。


みんなの視線が注がれるなか、先生が促す。


「唯、集計してくれ」


「……はい」


僕の手のひらに、みんなの答えが重なっていく。

一票、また一票。重ねるたびに、指先が冷たくなっていく。


どうして、こんなことになったんだろう。


そう思いながら、最後の票に目を落としたそのときだった。



「──どっちを選ぶの?」



背後から、凪の声がした。

静かな、でも逃げ場のない問いだった。


振り返ると、れいの顔もそこにあった。

いたずらっぽく笑っているようで、瞳はまるで答えを知っている人のそれだった。


その隣に佇む凪の表情は変わらない。ただ静かに僕を見ていた。


カウントが終わる。名前の数を指折り数えたその瞬間、気づく。



「19対19…」



きっとこの結果は、どっちつかずの僕に対する、神様からの挑戦状だ。



「……唯」



凪が、僕の名前を呼ぶ。

その声音には、責める響きも、期待の響きもなかった。ただ、名前だけがそこにあった。


「え、まじ? 同数ってあるんだ……」


誰かがつぶやく。誰かが笑う。

でも、笑っていない目がそこらじゅうにあった。


れいがゆっくりと、僕の隣に立つ。


「じゃあ、唯くんの一票で決まり、ってことでいいよね」


さらっと言う。その軽さが、逆に重かった。

僕の掌に残された、たった一枚の白紙。


君は、どっちの味方なの?


さっき聞こえた問いが、頭の中で何度も繰り返される。

違う。味方とか、そういうことじゃない。

僕はただ、委員を選ぶだけだ。たったそれだけのはずだ。なのに。


用紙に鉛筆を走らせる。


凪。

れい。


「……時間ないんだけど」


れいの声が冗談めかしく響く。でも、ほんの少しだけ、苛立ちが混じっていた。


その隣で、凪がぽつりとつぶやく。


「どっちでも、いいよ」


そう言った彼女の目は、まるで僕を見ていなかった。

何かを諦めるように、何かを置いていくように、ただ、言葉だけがそこに残った。


僕は、ようやく名前を書いた。


震える手で、それを先生の机の上に置く。


沈黙が教室に降りる。

それを破ったのは、先生の口元からこぼれた名前だった。


「凪が多数だな」


少し驚いたような声がみんなから漏れる。それは当人たちも同じだった。


れいの顔から、ぱたりと笑顔が落ちた。

けれどその一瞬は誰にも拾われなかった。彼女はすぐに口角を上げて、手を叩いた。


「そっか、おめでとう、凪」


その声はよく通っていた。

れいは強がっていた。

いや、『強がれるれい』でいようとしていた。


凪は立ち上がったまま、小さく頭を下げた。


「ありがとう」


それだけだった。

嬉しそうでもない。

表情のないまま、静かに自分の席へ戻ろうとする。


先生が気まずそうに咳払いをし、次の連絡事項へと移ろうとした──そのとき。


「唯くん」


凪の声が飛んできた。


「どうして私にしたの?」


教室が凍りついた。

一斉に、僕を見る視線。僕の手元にあった一枚の、あの紙の正体。


僕は言葉を返せなかった。

凪は、それを見越していたように微笑んだ。


「……ううん、別にいいの。ただ、ちょっとだけ、知りたくなっちゃって」


笑ってる。

でも、笑ってない。


その目には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。

たぶん誰も、それを指摘できない。れいがそれを許さないから。


チャイムが鳴った。


先生は気まずい空間から逃げるように「他の委員会は後日決める」と連絡し、さっさと教室から出ていく。取り残された僕たちにも少しずつ日常が戻ってくる。


それでも時間は進む。

ただ一つ変わらずに。


この選択がどっちつかずに拍車をかけることを僕は知っていた。


それでも僕は選んでしまった。


その責任が僕の背中に静かに降り積もっていく。


きっともう、あのころの三人には戻れない。


たった一枚の白紙に凪の名前を書いたことが、この物語の始まりだった。

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