第22話 手首の傷は戦った証

***


「お兄ちゃんただいま~! お外であそぼ!」


 赤いランドセルを背負った少女。

 彼女は玄関に靴を脱ぎ捨ててランドセルを置くと、家の中を歩き回り始めた。


「お兄ちゃんどこにいるの? お兄ちゃ~ん?」


 300坪はありそうな和風の豪邸。

 どの部屋を開けても、兄の姿は見つからない。


「……わかった! ここにいるんでしょ」


 少女は、とある和室のふすまに手をかける。

 そして、ワクワクと瞳を揺らしながらそれを開けた。


「……」


 少女は目を見開き、やや上を向いたまま硬直した。

 天井からぶら下がるソレが何なのか理解できず、気付けば足元には水溜りが出来ていた。


「お兄……ちゃん……?」


***


「──はッ! ……はぁ……はぁ」


 ガバッと、布団から勢いよく起き上がったのは市川。


(久しぶりに、怖い夢見たッス……)


 水でも飲もうかと、目をこすりながら立ち上がる。

 その時、フワッと冷たい風が吹いた。


(あれ、窓開いて……?)


 窓の方へと目をやると、夜島が窓際の棚に腰掛けて外を向いている。

 外の微光に照らされた顔は、蝋人形の様に無表情だった。


「夜島先輩……?」


 開け放した窓の外側に向かって足を投げ出した夜島が、振り返り市川を見た。

 だんだんと目が覚めて来るにつれ、市川は事の重大さに気付き叫ぶ。


「や、夜島先輩、降りてくださいッス! 危ないっス!」

「みんなに迷惑かけたくないから」

「何言ってるんスか、ここ五階ッスよ!? 落ちたら死ぬッス!」

「死にたいの」


 市川は固まった。

 寝ぼけた頭をフル回転させたが、何を言えば良いか分からない。

 彼女が言葉を詰まらせていた、その時。


「ヤミコ」


 背後から芥の声がした。


「芥先輩……」


 芥はゆっくりと夜島の方へ近付くと、彼女の腕を掴んだ。

 夜島は表情を変えないまま、消え入る様な声で言う。


「アクヤ……私、自信無い」

「え?」

「”もう一人の私”が現れたとき。打ち勝てる自信、無いよ」


 その声は、ほんの少しだけ震えている様だった。

 今までの夜島には無かった声色に、芥は身構える。


「俺にだって勝てたんだ。ヤミコにだって──」

「出来ないよ」


 夜島が大きな声を出したので、市川はビクンと肩を震わせた。


「私、アクヤみたいに強くないから」

「急にどうしたんだよ……今までだって、ずっと一人で戦って来たんだろ?」

「戦ってないよ。逃げてただけ。アクヤとは違うの」


 その言葉は、芥の胸に深く突き刺さった。


 他人との関わりを断ち、一人でいる事を選んだ夜島。

 心は孤独でも、表面上は周囲に溶け込む事を選んだ芥。

 内面は似ている様でも、外側から見れば二人には決定的な違いがある。


「落ち着けってヤミコ」

「私、死にたかった」

「知ってるけどさ」

「アクヤに迷惑かけたくないと思ったから、死ぬのやめたの。アクヤが助けに来てくれて、今度こそ友達になれると思った。普通になれると思った。……でも私、バケモノになってみんなを殺しちゃうかもしれない」


「それはみんな同じッスよ」


 口を挟んだのは市川だった。


「みんな怖いんス。私だって壷内だって、きっと旗野部長だって怖いんス。……でも必死で戦ってるんスよ! みんなで生き延びるために、頑張ろうとしてるんスよ!」

「私には無理なの」

「どうしてそんな事言うんスか?」


 夜島は自分の手首に刻まれた傷跡を見た。

 そして、さっきより震えた声で言った。


「私は”普通”じゃないから」

「普通じゃないってのは、悪い事ばかりじゃないさ」


 それは旗野の声だった。

 一同の視線が、布団の上にあぐらをかいて座る彼に集まる。


「旗野部長ぉ……」

「市川、頑張ったな」


 旗野は眼鏡をかけて市川に微笑みかけると、調理台の横にある椅子に腰かけて口を開いた。


「夜島さん。君に自傷痕がある事には気付いていたんだ」

「……そう」

「その手首の傷こそ、君が今まで戦ってきた証じゃないのか?」


 夜島は思い出した。

 自分の身体にカミソリの刃を入れる瞬間、頭に浮かぶのはただ”生きたい”という想いだった。

 血を流して赦されたい。

 自分はここにいて良いんだと確信したい。

 その想いで必死に身体を傷つけ、何とか生きて来たのだった。


「……私は弱いの。汚れてるの」

「でも死ななかった。逃げなかった」


 旗野は力強く言った。


「君は、病んでいる自分を弱い人間だと思っているんだな。だがそれは違う。きっと俺には想像もつかない様な辛い経験をしてきたんだろう? 今まで歯を食いしばってそれに耐えてきたんだろう? ……それでもなお生きている君は、本当は誰よりも強いんじゃないのか」

「……」


 黙って旗野を見る夜島の腕を、芥が引っ張った。

 夜島はおとなしくそれに従い、窓際の棚から降りた。


「……迷惑かけたわね」

「ははっ、気にするな。こんな極限状態だ。まともでいる方が異常と言えるくらいさ」


 旗野はそうとだけ言うと、眼鏡を枕元に置いて布団にくるまった。


「はぁ~、ビックリしたッスよもう」


 市川もそう言い残すと、自分の布団に横になった。

 夜島は窓を閉め鍵をかけると、芥の顔を見つめる。


「アクヤに助けてもらった命、捨てるところだった。ごめんね」

「もうバカな事考えんなよ?」

「……大丈夫だと思う」

「思うって何だよ」


 夜島は少しだけ口角を上げた。

 二人してそれぞれの布団へと戻る。


(ヤミコが笑ってるとこなんて、久しぶりに見たな)


 不思議な満足感に包まれながら、芥は穏やかな眠りについた。


 一方。

 寝たふりをしながら会話を聞いていた壷内は、脳内で旗野の言葉を反復していた。


『こんな極限状態だ。まともでいる方が異常と言えるくらいさ』


 その言葉は、妙に的を射ている気がした。


(何だ……何かが引っ掛かる)


 思えばここにいる全員、人の死体やバケモノを見てもなんやかんや正気を保っている連中ばかりだ。

 衣食住の身体的苦痛を抜きにしても、本来なら発狂しておかしくない状況である。


(そもそも、俺たちはなぜバケモノにならないんだ?)


 昼間見たSNSのタイムラインでは、ウイルスを原因とする説が有力だった。

 科学的根拠の無い突然変異説や、終末論を唱える呟きはデマだとバカにされていた。


(でも本当にウイルスなら……芥先輩と濃厚接触していた僕や夜島先輩に、血涙の症状が出ないのはおかしい)


 壷内は脳だけを動かしながら、ただ暗い天井を見つめていた。

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