わたしの隣で嘘をつくひと
西川 涼
第1話 始まりの不在
夜の気配が、ゆっくりと部屋に満ちていく。
窓の外を吹き抜ける冬の風は鋭く、どこか空気が重たい。
いつもなら、帰宅すると玄関までお父さんが迎えに出てくれる。
「おかえり」と少し照れくさそうに言いながら、台所に戻っていくその背中を見ると、どんなに疲れていても安心できた。
けれど今はもう、それがない。
事故に遭って以来、お父さんは病院のベッドの上にいる。
エントランスを通り、マンションのエレベーターに乗る。
狭い箱の中でひとりになると、息が詰まるような感覚になるのはなぜだろう。
ドアが開いて、家に入る。
「おかえり」
リビングから声がした。
そこには、義兄の颯太がいた。
「ご飯食べた?」
「まだだよ」
「じゃあ、作るから座って待ってて」
そう言って、颯太は台所へ向かう。
静かな足音が、床に響いた。
私はダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
颯太が料理をする姿は慣れたものだった。
お父さんが入院してからは、家事の多くを颯太が担っている。
「明日、病院行こうと思ってる」
「ああ、一緒にいくよ」
「お父さん、また脱走しようとしたらしい。看護師さんから連絡が来た」
「……困ったね。
記憶が混乱してるのかな。私のこと、毎回“知らない子”って言うんだよ」
私の声に、颯太は黙っていた。
鍋のふたを取る音だけが、部屋に静かに響いた。
「美羽のことが、怖いんじゃないかな」
「え?」
「覚えてない子が毎回お見舞いに来てたら……。お父さんの中で空っぽになっている時間を、無意識に埋めようとして、逆に拒絶してるのかも」
「私がこわい……か」
「うん。そこがすごく……危なっかしくて」
「……私の何が危ないの?」
熱くなる美羽。
「そういうことじゃなくて。美羽まで、いなくなったら……って思うんだよ」
颯太は、静かに言った。
その言葉はあたたかいようで、どこか冷たかった。
翌朝、制服に着替えた私は玄関を出た。
エレベーターに乗り、1階へ降りる。
扉が開くと、そこにはマンションの管理人がいた。
初老の男で、名前は確か松浦さん。だが、今朝はどこか様子が違って見えた。
「……おはようございます、美羽さん」
「……おはようございます」
視線が、妙に長く私を追ってくる。
背中に嫌な気配を感じながら、早足でマンションを出た。
学校では、一真がいつものように心配そうに近づいてきた。
「なんか、顔色悪いけど大丈夫か?」
「うん、平気。ちょっと寝不足なだけ」
「ほんと? あ、今日ノート持ってきたから、あとで渡すな」
一真はいつも通りだった。
だけど、その「いつも」が、妙に遠く感じた。
放課後、私は病院へ向かった。
病室に入ると、お父さんは窓の外をじっと見ていた。
「こんにちは」と声をかけると、ゆっくりとこちらを向く。
「……どなた?」
毎回このやりとりだ。
でも私は、何も言わずに椅子に座る。
「お花、替えておきますね」
ベッド横の花瓶に新しい花を挿しながら、私はお父さんの横顔を見た。
本当に、記憶を失っているの?
それとも、何かを演じているだけ?
病室を出ると、看護師がこっそり近づいてきた。
「また昨夜、ナースステーションをすり抜けようとして……。ご家族の方に連絡したほうが良いかと」
私はただ黙って頷いた。
私は綾瀬美羽(あやせ・みう)、高校2年生。
冬が嫌い、というわけじゃない。だけど、この季節になるといつも胸の奥がざわつく。
たぶん、あの日からずっと——。
高校1年の冬休み。
友達と一真の家で鍋パーティーをしていた。
笑い声が響き、湯気に包まれた部屋。
その中でスマホが震え、私はお父さんの事故の連絡を受けた。
「美羽? どうした?」
「……ごめん、帰る」
誰にも説明せず、私は夜の道を一人で走った。
高校2年の春。
母・智咲(ちさき)の墓参りに行った。
風の強い日で、桜の花が散りはじめていた。
お母さんの墓に花を供えたとき、背後から声をかけられた。
「あなた、智咲さんの娘さんね?」
振り返ると、初老の女性が立っていた。
話を聞くと、彼女はお母さんのかつての職場の同僚だったという。
「智咲さん、最後にこんなこと言ってたの。『私は、家族を守るためなら、何でもする』って」
「……“なんでも”?」
「その理由は聞けなかったけれど……。あの人の実家には昔から変な噂があったの。誰かがいなくなるとか、大事なものがいつの間にか入れ替わってるとか……」
私は言葉を失った。
彼女は静かに頭を下げ、霊園の奥へと歩いていった。
私はお母さんの墓を見つめた。
——お母さん、何を知っていたの?
私に何も言わずに。
話したい事たくさんあったのに……
もう、ぐちゃぐちゃだよ。
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