レモン爆弾

はねず

第1話

 教卓の上に、レモン。


 普段よりも些か賑やかな朝の廊下に、何かあったのだろうかと思っていたら、どうやら噂の原因はこの教室にあったらしい。

 教室に入るなり目に飛び込んできたレモンは、濃い茶色の木材でできた教卓の上にひとつ、軋むような黄色が異質だ。それは彩度の異物感であり、物体そのものとしての異質さでもある。

 面白がって写真を撮る人、先生が授業で使うために置いたのではないかと予想する人、手に取り投げる人。日常に突如現れた異質な物は、好奇心を刺激する。危険のなさそうな物なら、なおさら。

 僕はざわつく彼らを横目に、自分の席に座る。

 まだ六月も中旬だと言うのに、梅雨は早々に通り過ぎ、湿った熱気だけがまとわりつく。

 教科書を取り出しながら、少し前に座るクラスメイトに視線をやった。

 きっと、僕だけが知っている。あのレモンを置いたのが彼女だってこと。



「あのレモン、置いたの遠野でしょ」

 六限が終わって早々に部室へ向かうと、彼女は既に定位置の窓際で本を開いていた。

 いつも通り彼女の向かいに腰を下ろし、参考書を開きながら朝の事件について切り出す。

 彼女は本から顔をあげ、大きな丸眼鏡の奥でいたずらに笑った。

「バレた?」

「梶井基次郎の『檸檬』。そんな物読んでたら流石に気づくよ」

 彼女が手に持っている本に目をやり、そう答える。

「面白かったでしょ? レモン」

「まぁ、面白いか面白くないかで言ったら面白かったよ」

「もう素直じゃないんだからー」

 掴みどころのない人だ。

 もう受験生だというのに、特に活動日も決められていない文芸部に毎日のように通っては、何を書くでもなくただ本を読んでいる。本を読みたいだけなら家でもいいのではと聞くと、秘密基地があるって素敵だろうと返された。そんな彼女に絆されて、誰も責める人がいないのをいいことに、ある日を境に部員でもない僕も秘密基地とやらを共有させてもらっている。

 クラスメイトになって二年目になる彼女について知っていることといえば、癖っ毛のショートヘアと、女の子にしては高めのすらりと伸びた体躯、本人曰くチャームポイントの丸眼鏡。読書の幅は広く何でも読むが、流行りにはわざと一足遅れること。

 そして、突拍子もない事を突然しでかすこと。

「それで? なんでまた急にレモンなんて」

「面白いじゃん。みんなから見たらただの黄色い果物なんだろうけど、あれは爆弾なんだよ」

「爆弾」

 嬉々として語る彼女は、とても冗談を言っている様子ではなく、それでいて冗談を楽しんでいるようでもある。

「ほんとは爆発もさせたかったんだけど、それはさすがに怪我人とか出たら大変だし」

「どうして爆発なんて企んでるわけ?」

「思春期の人間というものは起爆剤を抱えてるものだから」

 どこか的を射ない答えのような気もするが、言いたいことはわかる。学校という閉鎖された空間で成長を強いられる僕たちには、数え切れないほどの疑問や苛立ちがあるものだ。

 けれど、彼女の起爆剤を予想できるほど彼女という人間について詳しくない僕は、彼女の苦い表情の意味を知らない。他人の苦味は、無理に知ろうとするものじゃないと思っている。

「沖田にはないの? 爆発」

「んー、あるよ」

 爆発というほどでもないのかもしれないが、やはり僕にもある。昔から周りに合わせてばかりで、ろくに努力もできない。何かを生み出す事もできない。おかげで、自分のやりたいことも得意なことも見つけられない。気づけばもう受験生で、成長しなければいけないのに、ずっと足踏みしているような感覚。他人ばかりを羨んでしまう。どこか息苦しくて、色の抜けた世界に生きているようだ。こんな世界ごと吹き飛ばしてしまえたら、この気分も晴れるのだろうか。

「期待してるよ、沖田の爆弾」

「何だそれ、遠野じゃあるまいし、何もしないよ」

 彼女がやけに真面目な顔で言うもんだから、つい笑ってしまう。レモンを置くなんて、そんな突拍子もないことは彼女だからできるのだ。僕には、十分な勇気も動機もない。



「よ、おはよー沖田」

 翌朝、駅から学校へ向かう道で不意に肩をたたかれた。

「あれ、佐野じゃんおはよ」

 自分より少し背の高い彼を見上げるように確認すると、そこにいたのは太陽が似合う健康的な笑顔のクラスメイトだ。

 佐野とは、クラスで席が隣になってからよく話すようになった。彼はよく笑い、よく喋る。今も、朝だというのに妙にご機嫌な様子で笑みを絶やさない。

 僕は、どうも彼が苦手だ。

「なぁ聞いてよ、この前の模試が超よくてさー」

 彼が自然に話題を振ってくれる。いつものことだが、僕が何を話そうかと考える隙も与えないのだから感心してしまう。

「よかったじゃん、志望校レベル高いもんね、がんばってんだ」

「そ、最近めっちゃがんばってる」

 こちらを見た気配がして、彼に目をやると、自慢げに力こぶを作るポーズを決めていた。

 素直で、努力家で、人当たりもいい。どう見たって完璧な人とは存在するものなのだ。

 ただの僻み、嫉妬だとはわかっている。でも、彼は自分の理想そのもので、接すれば接するほど自分の弱さや醜さが露わになっていく感覚に、日に日に耐えられなくなっていく。

 いっそのこと僕の事なんて知らないままでいてくれたら、遠くから見ているだけなら、やりようがあったというものを。

 嫉妬ばかりに目が眩んで、彼を目標にして頑張ろうとも思えない自分に嫌気がさす。

 いくら相手がなんでも持っているからと言って、人の不幸を願うなんて最低だ。わかっているのに。

 やっぱりすごいね、と笑う僕が、自分にそんな感情を抱いているなんて思ってもみないのだろう、彼は。素直なのだ。

「僕は全然だめだな、これからに期待」

 わざとらしく軽い調子で誤魔化してしまうのも、僕のよくない癖。

「沖田なら大丈夫だって、応援してる」

 どこまでも眩しい。どろりと、黒い何かが胸を伝ったのがわかった。

 爆弾。

「そういえば、昨日のレモン、見た?」

 流れる感情を隠すように、ふと漏らす。

 彼は、一瞬考えるそぶりを見せてから、閃いたという顔をして頷いた。

「見た見た、教卓にあったやつでしょ。結局誰かの忘れ物だろうって事になって先生が回収してたやつ」

「あれ、どう思った?」

「どうって言われてもなぁ、不思議な事もあるもんだと思ったくらいしか」

 どんな忘れ物だよと大きく笑う彼を見て、心の中で遠野に向けて呟く。

 やっぱり、あれはただの黄色い果物だよ。誰にも、届きやしない。



 教室についてみると、いつもは僕よりも早く来て本を読んでいる遠野がいない。

 昨日はあんなに元気そうだったのに、急に体調でも崩したのだろうかと心配していると、三限目の授業中に彼女はやってきた。

 どうしたのだろうと様子を伺うが、先生はちらりと目をやるだけで声はかけない。何か知っているようだが、僕らには教える気がないようだ。

 どこか元気のない遠野の背中を眺めながら、届くはずもないのについ独り言のように話しかけてしまう。

 どうしたの、遠野。体調でも崩したの? それなら休めばよかったのに。

 そう心の中で呟いてから、そういえば遠野は一度も学校を休んだことがないことを思い出す。度々遅刻をしたり元気がなかったりといったことはあったが、僕が思い出せる限り欠席をしたことはないはずだった。

 何か休めない理由でもあるのだろうか。学校が好きなのかとも思ったが、読書してばかりだし、そうも見えない。

 まるで、何かと戦っているよう。

 遠野は一体何と戦っているのだろう。

 僕はただ秘密基地を共有しているだけのクラスメイトだけれど、遠野の助けになりたい。

 自分のこともまともにできていないのに他人を助けようだなんて虫がいい話だが、秘密基地を共有しているうちに、薄くも広い仲間意識のようなものが芽生えてしまったのかもしれない。

 遠野は十分戦っているのだから、僕にも戦わせてほしい。

 ふと、そう言葉にした途端、じわりと自分の感情を自覚した。昨日、見えないふりをした感動を。

 胸が高鳴ったんだ。遠野がレモンを置いたと分かって。ずっと、じっと何かに耐えていた彼女が、反撃に出たと思ったんだ。

 どうしようもなくて、何も変えることのできない僕とは違う。遠野は、確かに爆弾を置いたのだから、すごい。

 遠野は、怪我人が出るからと、置くだけで面白かっただろうと爆発を諦めていたが、本心では諦めたくなかったに違いないのだ。

 今度は僕が爆発させる番。

 そう思ったら、燻っていたものが一気に晴れる心地がした。

 そうか、何も難しいことはないんだ。

 きっかけなんて、自分で作ったっていい。いや、自分で作るしかないんだ。遠野が置いたレモンは、遠野のものだった。あれが、遠野の爆発。

 僕が気付けたのはあのレモンのおかげだとしても、それをきっかけにするのは僕。

 ようやく、わかった。

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