第11話 旧校舎
チャイムが鳴った。
それを合図に、誰かがふぅっと息を吐き、椅子が軋む音があちこちから立ち上った。
鞄を引き寄せる気配、プリントをまとめる手の動き、立ち上がるついでのあくび。
途端に、緊張が抜けるような脱力感が教室を包み込んだ。
「……よし、そろそろだね」
澪が僕の隣で小さく伸びをしながら、声を弾ませた。
「今日のメインイベント、いよいよスタートだよ」
「まだ始まってないけどな」
「細かいことはいいの。そういう気分ってことで」
笑って机に肘をつく澪につられたように、周囲がざわつき始めた。
「夕飯食べたら、食堂前集合でいいんだよな?」
「……本当にやるの?」
あちこちで声が上がるたびに、笑い声も混じる。誰もが少し浮き足立っていた。
「結月も準備できてる?」
「……なにを?」
「心の準備だよ。川嶋さんと二人きり、夜の廃校舎……いや~んロマンチック♡」
「はいはい」
僕が苦笑しながら教科書を鞄に押し込むと、澪は勝ち誇ったように肩をすくめた。
前のほうでは早乙女が教室の真ん中で皆に声を掛けている。
「じゃ、夜は忘れ物なしで集合ねー!」
わざとらしく明るい声を響かせる。その横では小谷が静かに相槌を打っていた。
早乙女と小谷が連れ立って教室を出ていき、次いで何人かがそのあとを追う。
廊下から差し込む光はまだ夜には遠い。
ふと窓を見ると、寂しげな旧校舎が木々の隙間から見えた。
やがて、夕食を終えた頃、旧校舎の前には生徒たちが三々五々集まり始めていた。
空はすでに藍の帳が落ち、校舎の影が地面に濃く沈んでいる。かつては賑わいがあったはずのその建物は、今ではまるで異物のように敷地の隅に取り残されていた。
窓のいくつかには板が打ちつけられ、塗装は剥げ、ひび割れた壁面には苔が這っている。玄関の上に掲げられた古びた校章は、いつ崩れ落ちてもおかしくなさそうだった。
「雰囲気あるなぁ……」
背後で誰かがそう呟いたのが聞こえた。
昇降口の前で、澪がパンパンと手を叩くと、ざわめいていた空気がすっと静まった。
「はいはーい、ちょっと注目ー!」
懐中電灯を片手に掲げ、澪が軽やかな声で言った。
「これからみんなには、旧校舎の“七不思議ポイント”を二つ、ペアで回ってもらいます。ひとつ目は『開かずの放送室』。そして、ふたつ目は『呪いの用具箱』!」
軽く腕を振って建物を指差すと、中嶋が冗談めかした声で「こえー」と笑った。
澪はそんな空気も楽しそうに受け流しながら、話を続ける。
「えーっと、まず最初に『開かずの放送室』の説明からね」
どこか芝居がかった口調で、澪は夜の校舎を見上げた。
「昔、この校舎がまだ使われていた頃、放送委員だった子がいたの。夏休み前、彼女は放課後に作業があって、ひとりで放送室にいたんだって」
背後で、誰かの笑い声が止まる気配がした。
「でもね、その子が中にいるのに気づかず、誰かが外から鍵をかけちゃったの。夏の暑い中、どれだけ叫んでも、扉は開かなかった」
「見つかったのは――夏休み明け。放送室のドアの内側で、ドアに縋りつくように倒れてたんだって。内側にはたくさんのひっかき傷が残ってたみたい……」
澪は唇に指を当て、少しだけ黙った。
「でね、それ以来――夏になると、その放送室の前を通ると“助けて”って声がするんだってさ。鍵は壊れてて開かないけど、もし開いちゃったら……中にいる子と目が合っちゃうかも」
わざと声を落とした澪が、唇に笑みを浮かべる。
皆の視線が、吸い寄せられるように校舎の上階へ向いた。
「そしたら、“出してくれてありがとう”って言って、その子が出てくるの。――あなたと交代でね」
笑い混じりのざわめきが広がる。
けれど、誰もすぐには言葉を返さなかった。
その間を切り裂くように、校舎の奥から風がひゅう、と抜けた。
板で打ちつけられた窓がわずかに震え、軋む音を立てる。
一瞬、話と現実の境目がなくなった気がして、ぞわりと背筋を撫でていった。
思わず周囲が静まり返る。
その空気を察してか、間を置いて、澪はもう一度パンと手を叩いた。
「ふたつ目は『呪いの用具箱』!」
彼女は懐中電灯をくるりと回しながら言う。
「これは音楽室の隅にある古い木箱の話。前に、ある先生が授業中にいきなり消えたことがあって――探しても見つからなかったのに、それからしばらくして、その箱から“コン、コン”って音がし始めたんだって」
茶化す声も上がらず、誰もその場から動こうとはしなかった。
「箱は開けちゃいけないって言われてたんだけど、ある生徒が中をのぞいたの」
ふざけたように言いながらも、どこか本気でゾッとする語り口だった。
「なんでだろうね、その子。それを開けてから、学校に来なくなったってさ。何があったのかは、誰も知らない。……開けたら、何があったんだろうね?」
澪が、最後ににやりと笑う。
そんな中、懐中電灯を配っていた中嶋が「深町いくぞー」と名前を呼ぶと、軽い歓声とからかいの声が飛んだ。
深町は静かに立ち上がり、中嶋の差し出した懐中電灯を受け取って前に出る。その横顔はどこか緊張を滲ませていたが、黙って中嶋の後に続いていった。
二人の背中が闇に溶けていく。ざわめきは再び戻ったはずなのに、不思議と僕には遠い音にしか聞こえなかった。
旧校舎の影が、じわじわと僕に近づいてくる。
気づけば、川嶋がひとり、その影を見上げていた。
「……結月、次だよ」
澪に肩を軽く押されて、我に返る。
「ま、楽しんで?」
にやにやと笑う澪の手が、軽く背中を叩く。
そのまま、僕は川嶋の横に歩み寄った。
彼女は壁にもたれ、ひとり旧校舎を見上げていた。表情は読み取れなかったが、街灯の淡い光に照らされた横顔には、どこか揺るがない強さがあった。
「……行く?」
ふいに川嶋が振り向いて、そう尋ねる。
その声は無機質だけど、返事を待っているような気配があった。
「うん。……行こう」
ぎし、と鈍い音を立てて扉が開いた。
その瞬間、背後のざわめきがすっと遠のいて、空気の温度がわずかに下がった気がした。
川嶋と並んで一歩を踏み入れると、外の世界と切り離されたように、静けさが全身に絡みつく。
僕たちは暗闇の中へと歩みを進めた。
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