文学は参加でき過ぎるへの応援コメント
はじめまして。
こちらの作品、面白いです!
私が思うに、文学という言葉、定義が古過ぎると思います。
本来言葉や文字は生活に密着した物で、それを学ぶとか、遊ぶとかなかったと思うんです。
昔(日常生活が大変だった時代)に文章をこねくり回していた人たちが、文学家、文豪と呼ばれただけではないかと。
現代では多くの庶民が余暇を持てるようになり、言葉を触る人が増えただけで、昔の文学家と比べて現代の文章を文学だ文芸だライトだと言うのはナンセンスだと感じております。当時とは文化も話し言葉も違うので。
作者さまの意図と違うこと書いてたらすみません……。
作者からの返信
お読みいただきありがとうございます!忙しくしてまして、お返事遅くなり申し訳ありません🙇♂️
まったく同意です!更新されていないです。
ただ同時に過去の文豪は絶対値で優れているのも事実だと感じています。文体や時代感を抜きにして、鋭い。単純に能力が高い。だから未だに文学のスタンダードはそちらだと多くの人が思っている。そりゃ歴代最強世代にみんな注文します。
かっこいいです。ぼちぼち100年経つのに未だ最強。でも本人達はあの世で退屈なことでしょうからそろそろ倒したいです。
なので土台から組み立ててます。比べられないような私達の文学でありながら、文学を未だに古い価値観で語る人が読んでも「おや…?」となるものを書きたい。過去の文豪が席を開けられるようにして差し上げたい。だから私の文学を組み立てています。
つまり文学のアゴに特大パンチです。文学は意識失って私にされるがままです。いい感じにします。また次の世代の人達も私のアゴ目指してくることでしょう。私は文学を表面してるのでなんとなくの文学っぽさなんて終わってますから、ちゃんと私も打倒されます。
そうして文学のサイクルを作ろうと思います。古いものがそのままに、また神格化されて孤独にならない。絵空事ですが目指します。もしよかったらこの先も楽しみつつ見守っていただけたら嬉しいです。
編集済
命題を探すにあたってへの応援コメント
彼の証明は、長年の友を失うと同時に、同じ研究をしていた多く人間に、終了宣告をすることでもあったのですね。
人類史に残る偉大な研究、しかし、その結果はどこかさみしいものなのかもしれません。
私のエジソンのイメージは、長らく小学生の時に読んだ伝記のままだったような気がします。それが、成人後に読んだネット記事(主にwikipedia)によってイメージが汚れてwしまい、なんだか思い出すのが辛くなったことがあります。
発明王エジソンに憧れていた私にとって、経営や利権争い、現実的問題、なにより高等数学を理解できなかったために交流送電という発想に至らなかっという点は、私をひどく傷つけました。結局、いい大学、良い才能に恵まれなければ勝利はありえないのか、などと落胆したものでした。それからしばらくエジソンと私は仲が悪かったw のですが。
今思うのは、それでもエジソンはすごかった、ということでしょうか。学がないから負けた、というのではなく、学のない彼が発想力と創意でここまでの業績を成したということは、私にも光明となる事実かもしれないと。
彼の哀しさは、幼少期の「周囲から認められなかった」という記憶に対する仇討ちとそれに対する反動の承認欲求だったのだと思います。ですが、そんな小難しい理屈はともかく、発明し発見し、実現できた時の喜びというのは、彼の中でも紛れもない真実、本質を捉えた本物であったのではないかと信じたいのです。
文学に溺れる我々も、誰かに褒められることではなく、思考を世に放てた喜びを糧に、筆を振るうべきではないかと、思うのであります。
作者からの返信
ワイルズの精神性大好きなんです…夢が叶う悲しさ、そこから感じる子供みたいな無邪気な愛情、こんな風に生きたいなと思います。なんともいえない悲しさを共有できてうれしいです!
エジソンについてもその通りです。私はあくまで負けても楽しめるように、仲間が多いまま生きられるように、無邪気な方がいいとこの章で書きました。その方が学問全体としては発展が早いと考えられるからです。
効率を考えたら最善ではないのに「1人でも良い!勝ちたい!稼ぎたい!」で全部1人で搔っ攫っていったエジソンのパワー半端ないし、結局しっかり発展してるので私も尊敬しています笑 社会にとってどちらが良いか?ではなくて「自分の発見こそ至高!」「我こそ絶対正義!」という感覚なのかな?という程度に私は捉えていました。
『彼の哀しさは、幼少期の「周囲から認められなかった」という記憶に対する仇討ちとそれに対する反動の承認欲求だったのだと思います。ですが、そんな小難しい理屈はともかく、発明し発見し、実現できた時の喜びというのは、彼の中でも紛れもない真実、本質を捉えた本物であったのではないかと信じたいのです。』
これすごく響きました。私の知らない事実と深い洞察です。エジソンも私の認識よりずっと味わい深いですね。本文書き直そうかと思ったのですが、やや利己的くらいの表現でエジソンの純粋性は示唆していました。天川さんの栄誉を横取りせずにこちらのコメントに任せておきます笑
良いお話ありがとうございます!改めてこんな難解なものをここまでしっかり読んで頂いてコメントもいただき感謝です!
文学するためにへの応援コメント
私は情報というものにジャンル分けをしない主義(というか、頭の構造が多分そうなっていない)なんです。
なので、宇宙の話と文学の話が全く矛盾や相反すること無く頭の中で共通項を求めて踊りせめぎ合っております。
すべての情報のラグランジュ点(この表現気に入りましたw)がどこになるのか、そしてそこに何があるのか。
私が求めていたのは、この見解だったのかもしれません。
作者からの返信
そこ、カントの一番いいところなんです。
「いや多分ないよ。でもそんな感じでやろうぜ」これを言い切ったのがマジでありがたいと感じてます。
さまざまな学問、特に史学、哲学、法学、文学等の文系の学問って確定ってほぼないんです。カントは「でも頑張ってなんか矛盾しないようにできる…かもしれんよね?ほらこんな感じ!少なくともそういう方向でやるって大切で意味あるよね?」と、自ら曖昧なことをめっちゃ正確に記述して簡単に否定できないくらい証明してくれました。
天川さんの中にある、様々な重力源が均衡して安定する、天川点探す価値ありありです。もしもぽんぽん点も同じ場所でそこで会えたら一緒に笑いましょう。別の場所でもぜひ教えてください。楽しみにしています!
編集済
学問のすばらしさへの応援コメント
最高に面白かったです!!
読んでる最中に、頭の中の錆びついた知識だったり常に明滅している灯台みたいな興味点だったりが一同に介して呼び合ってるみたいでした。
カントは私も知りません、が、哲学者は大好きです。私は、パスカル(本業は数学者)と親鸞ですね。著作で云えばパンセと歎異抄でしょうか。(歎異抄書いたのは親鸞じゃないけど……💦)
原典は難しくて読めない、これもわかります。私も原典ちゃんと読んだか?! と言われると、……いいえ、としか答えられないでしょう。しかし、現代では指南書と呼ばれる本がたくさんあります。それらから上質なもの(ここ重要。中には原典の名を利用して自論を並べるだけの駄文書もありますからね)を選び、二、三冊読み込んでそれら指南書の示す重力から矛盾なきラグランジュ点を観測すれば、不思議と哲学書の述べる粋が集まっております。それからおもむろに原典読むと、あーら不思議、全然イミフだったものがすらすら読めるじゃありませんか!?
ちなみに、三体問題と言われた時は「何のこっちゃ?」でしたけど、惑星軌道と聞いて、興味のアンテナが「びびん!」とおっ立つのを感じました。宇宙大好きなんでw
で、ラグランジュ点の話をされて「あー、そのことかぁ!」という逆方向から腑に落ちるという快を味わわせていただきました。
……今読み返して、次回のネタバレになってないよな? とちょっと心配になってしまいました。
作者からの返信
繋がる感覚に関連するおもしろ小話があって、小学生の教育教材として分数大富豪を作った先生の話です。
分数を授業で習ったけど理解できない子が多い。なら分数で数字の大きさを現した大富豪作ったら楽しんで覚えられるのでは?1/3と2/5はどちらが大きい?どっちが先に出せる?みたいなことをゲームのルールとして覚えたらいいやん!という意図です。
いざ小学生に渡したら驚くようなことが起きて分数を習う3年生以降の年齢の子を想定していたのに、まだ習ってない低学年の子も一緒に遊んでいたそうです。
で遊んだ低学年の子達が数年立っていざ分数の授業受けるとスイスイ理解できるそうです。
この現象を「知識の接地」って呼んでるそうです。理解せぬまま関心だけを向けておく。記号とか絵と直観的な大きさを認識していると、いざ理解する時にスムーズになる。
これは多分、小学生の学びだけではなく、私達が哲学の参考書とかこうして会話していることも同じかも?と思ってます。大人の難解な学びや、それぞれ違った複雑な個人が互いに理解し合うためには「接地」でまず喜ぶべきかも。
こちらの私の勝手な創作論もそうです。たぶんきちんと読んで頂いても正確には伝わってないと思うんです。「アプリオリな総合判断」が何かははっきりせずとも「なんとなくおもしろい!」で成立してると思うんです。以前はこういうもの書く時に説明しきる!とか考えてしまってましたが、接地を知ってからはなんかおもろいでいいのかなと感じてます。それだけで十分嬉しい。
勝手な私の考えにとりあえず接地していただいて、いつか私の物語や他の方の作品の中ででもパァァン!!と理解してもらえたら嬉しいなという意図で書いてます。
なので天川さんのご自身の経験に紐づいて楽しめた!という感想すごく嬉しいです!天川さんのコメントがこの文章のラグランジュ点みたいです!ありがとうございます!
編集済
文学は参加でき過ぎるへの応援コメント
単なる読み間違えなのですが、
『そのため文学は氾濫しているように見えます。本来水溜り程度で溢れるはずないのに────』
溢れる(あふれる)
ですが、
溺れる(おぼれる)
と読んでしまって、いたく腑に落ちたというw
当然、「実際は水たまり程度で溢れても氾濫してもいなくて」、という意味なのですが、
これを読み違えに従うと、
水たまり程度の文学(未満)作品に、文字通り「溺れることだってある」という、実に文学的表現だなぁ……などと、勘違いから興奮してしまいましたすみませんw💦
作者からの返信
確かに溺れるの方が味わい深いですね…近いうちにこっそり変えときます!笑
こんな独り善がり最後までちゃんと読んで頂いたようでめちゃくちゃ嬉しいです…!先々のコメントも楽しみに拝見します!
文学するためにへの応援コメント
物理学や数学って現代の先端近くは文学や哲学と親和性が高そうですね。
観測できない、観測により結果が変わる事象を確率で論ずる研究とか、証明できないことの証明によって別の命題の証明とするみたいなので溢れてますもん。
あと、大学では理系に進む人のほうが文学的でロマンティストが多いし、無駄知識をいっぱい蓄えてるなと思ってました。
効率重視、利益優先だとどうしたってブランド大学文系選ぶからなのかな?とか、理系は好きだからで選ぶ奴が多いけど、一定レベル以下の文系は消去法で進路選ぶからとか、相当偏見はいってますけど。
学問のすばらしさへの応援コメント
ラグランジュ点の発見は20世紀末から、21世紀初頭の日本経済にそこそこ大きなインパクトを残し、今後もそれなりの地位を占め続けるでしょう。
これは単なる事実だし結構な割合の人がすぐ気づく位には有名ですが、実現していない、もしくは存在しない。科学技術での稼ぎって案外凄い気がしてきました。
ラグランジュポイントは勿論機動戦士ガンダムの世界の基礎を成す理論ですが、そこに架空の技術を積み上げて技術体系を作り上げる情熱もある意味学問してるかもしれませんね。文学性も有るんじゃないでしょうか。
架空科学といえばドラえもんやスター・ウォーズなんかもそうですが、このへんまでいくとそもそも基礎技術が理解不能なので一皮むけばマジカルファンタジーかもしれません。
学問とはへの応援コメント
ブライダル学科が存在するんですねえ。
なんかブラジル学と間違えて志望するうっかりさんとかいそうです。
ありそうだし、夢があるじゃないですか、ブラジル学。
未来世紀ブラジルを題材にひたすらディストピアについて論ずる、だったら辛すぎそうですが。
学問って、別に研究や創造に関わらなくても存在してると思いますし、それ単独では何の役にも立たないことが許されるのも特徴だと思います。
どう考えたってそもそもの始まりは暇つぶしの思考実験と無意味な蒐集癖ですから。
利を求めたり、利を必須とすることも否定できないし、それによって発展して来たものでもあるから混乱するし認識が共有し辛いのかと思います。
特に日本の場合、近代学問の発端は所謂実学、産業振興のためのお勉強ですからね。
だからこそ慶応大学は超高級就職専門学校でも許されるし、それだからこそ成功しもてはやされるんだと思ってますけど。
だいたい慶応に限らずブランド私学の志望動機なんてほとんどが研究実績とかじゃなくて、在学中と卒業後の社会的ステータスアップでしょ?
以下追記です。
すみません全く批判のつもりは有りませんでした。必要とされるからこそ成功し、ますます向上することを悪いとは思っていません。
創設者の超有名な著書に絡め、創造の有無や実利の有無に関わらず学問は学問であり、その価値をいささかも貶めるものではないと言う意味を込めたつもりでしたが、文章の拙さから上手くお伝えできなかったようです。
皮肉な気分やコンプレックスがにじみ出てしまうのでしょうか。
慶応義塾に関しては歴史の教科書に載るレベルの一般事項としか感じておらず、そこに属する人達の心情にまで配慮しなかったことは大きな誤りだったのでしょう。
ブラジルでふざけたのもいけなかったのでしょうかね。
ご不快やご懸念はごもっともですが、黙って削除するのもまた失礼にあたるかとおもいます。
システム上可能なら削除していただいても結構ですし、削除せよとお伝えいだければこちらで削除いたします。
作者からの返信
具体的な大学名をあげての批判は控えていただきたいです。
私も私大卒です。補助金をいただき運営されているので、いかなる批判も当然あるべきです。
ですが今も続く実在の団体は社会の要請に応える努力を日々されています。
大学とはこうあるべきだ、はいいです。より良い構造の提示です。でもあそこはなってないと個別の団体を批判すると不必要に大きな議論になってしまいます。
あと単純にもし読者に慶應卒の方がいらして、こちらのコメント目にしたらどうでしょうか?穏やかで建設的な議論にはならないと思います。
そういった無用な対立を避けるためにご意見の中で個別の実名をあげることはお控えいただきたいです。
命題を探すにあたってへの応援コメント
なんだか、旅行のときに、終わりが近づくにつれて虚無感が募っていく感覚を思い出しました。
フェルマーの最終定理を解く過程は、ワイルズにとって、旅だったのかなぁ、と想像しました。
あと、エジソンは本当にその気が強いですね。
作者からの返信
旅行の終わり。その通りだと思います。少年の頃から続けた旅の終着。きっと幸せではあったのですが寂しさが勝ったんだと思います。
そうそう、エジソンすごいなと思うんですよね。
あの人たぶん音楽の才能あったら同じように他の才能潰してでも自分で富の独占したと思うんです。
なんていうか、科学が好きではない感覚があります。必然性がない。でも最強というか。おもしろいですよね。
学問とはへの応援コメント
私も、大学と書いて、しゅうかつよびこうと読む、ようなものに、成り下がるのはけしからんと思います。卒論やそれに類する卒業制作的なものが皆無で、単位さえ取れば卒業可能な風潮が、かつての名門校にも蔓延り始めていますし。
また、学問性は、オリジナリティの有無で決まると考えております。
論だろうと話だろうと、0→1なら学問。
自称論だとろうと自称話だろうと、既存に倣うだけなら、それはコピペであり、おべんきょうであり、作者は自分でないほかのだれでもいいのであり、有象無象。
だと思いました。
作者からの返信
概ね賛同します。でも私よりすでに偉大な学徒の方を庇っておくと、すでに1になったものを深く研究することも学問だと補足しておきます。
哲学科の学生はカントの純粋理性批判の解釈を卒論にしたりするみたいです。よく読んだらこうじゃない?こういう読みもあるよね?
加賀倉さんもそういう方を否定しているわけではないかと思うのですが、新しい発見していない彼らも学問はしていて0→1の準備段階は変わらず素晴らしいことです。
でないとこの先の私も0→1をしようとして、たぶん0のまま終わるので先に言い訳しておきます笑
時間稼ぎへの応援コメント
こんばんは。
>人類、悲劇に学びすぎ問題の解決
前置きは省きますが、この「悲劇への偏り」について、僕なりに思うことがあるので少し書かせてください。
そもそも、悲劇というものには普遍性があり、人や文明を立ち止まらせる力があるからこそ、人類はそれに学ばざるを得なかったのではないか──そんなふうに思います。
たとえば、ポル・ポトによる知識人の粛清や、ヒトラーによる独裁など、過去の大きな悲劇の多くは、「もう二度と繰り返してはならない」と語り継がれています。それは、ぽんぽん丸さんの言う“アプリオリ的視点”から見ても、もし再び起これば文明の存続すら危ういとされるほどの出来事だからこそです。
今もSNSなどを見ていると、短期的な利益を優先して政党を選んだり、過去の失敗を繰り返しそうな言説が散見されます。
(※ただし、そういった人々を単純に排除すべきではないと僕は思います。それこそがヒトラーのような排外主義へと繋がる道だからです。)
こう考えると、「悲劇に学ぶこと」は、社会を成り立たせるための儀礼や慣習のようなものでもあるのかもしれません。多数の人間を説得し、共生していくには、悲劇を“共有可能な物語”として活用する必要があったのではないでしょうか。
一方で、喜劇はもう少し個人的な感情や価値観に根ざすものかもしれません。“きゅん”のような恋愛感情や、ときめき、ちょっとした高揚感──それらはアプリオリな報酬や体験として存在していて、それこそ「生きるエネルギー」や「絶望に効く薬」として、人によって自然に選ばれるものだと思います。
(※ただし、悲劇とは違って、喜劇には**“余白を自分の体験で補える”自由**があります。たとえば、小説で多少曖昧な描写があっても、読者はそれを自分なりの“きゅん”や喜びに置き換えて、ポジティブな感情として追体験することができる。
そう考えると、喜劇はむしろ“開かれていて”、個人的な真理に寄り添う性質を持っている──そんな証左なのかもしれません。)
悲劇から学び、喜劇から癒される──その両方を許すのが、健全な文明なのかもしれません。
作者からの返信
なんというか、私はもし霊魂が存在して犠牲になった人の顔を見たらそう言えないと思うんです。
ポル・ポトの虐殺で死んだ人が目の前に現れて「私達はあなたから学んだ」って伝えても私はすっきりしない。
逆で考えてもそうです。私が政治に殺されて残された人が「学んだからもう2度とこんなこと起きない」って言ったとして、私の返事は「いやいや、私の人生!!」です。
犠牲は納得しないと思うんです。結果の後に残された最善でお互い許し合うしかないだけです。それを人類は習性だからと永遠に許容し続けるんでしょうか?誰かの屍の上に平和を作ってこれが最善と言い続けるのは私は嫌です。
アプリオリな総合判断を言い換えると、経験せずに知ることです。経験せずに先に知ることができるなら、悲劇を経験せずに防げる可能性があるはずです。
鷹さんの言うように普遍です。「悲劇に学ぶ」は生物誕生から変わらぬ原理です。私はそれをひっくり返したい。そんなことはできないと私も思うけど、ひょっとしたら健全でないかもだけど、僅かな望みを探りたいというような試みです。
おそらくここまでお考え頂いた鷹さんならより楽しんでいただけると思うので、この先もよろしくお願いします。
学問のすばらしさへの応援コメント
高専に在籍していた頃、数学の先生が「この問題の解は存在しません」みたいなクラス全員が「!?!?」となる神回が存在しました。
問題の誤植だったかわざと方程式の解無し問題だったか忘れましたが、「難しくて理解できないこともあるけど、そもそも解が存在しない問題もあるのか、」と"ゼロ"を知れた貴重な授業でした。
アプリオリな総合判断、現代の人々に欠けていると思います。
知識や経験から新しい答えを導き出す能力。
AIやインターネットに答えがゴロゴロ転がっている時代だからこそ、日々のインプット、アウトプットを大切に物事や文学と向き合いたいです。
作者からの返信
いい先生ですね!
解のないことについてどう考えるか。大切なのはゼロについてどう考えるかだと思います。
カントが書いたのは純粋理性批判です。でも理性を否定してるわけじゃなくて、アプリオリな総合判断のような理性的姿勢を大切にしています。だけど同時に神とか時間とか証明しようのない理想に向かう人間の性質、理念も大切だと言ってます。
論理的にではなくて、自分の能力では解のないことが生きていると溢れてきます。その時に理性では扱えないからと投げ出すのでもなく、無謀にただ挑むのでもなく、理性と理念の両輪でやっていこうぜ!ってカントも言うてました。
たぶんそうしないと、人類は相対性理論にはたどり着けないですし、恋のひとつもできません。なので解のない問題を知ることを神回としてとらえる、その感性が大事なのだと思います。
こんな個人的な書き物をしっかりお読みいただけて嬉しいです!またぜひ!