第9話 響く音、開く扉
カーテンの隙間から漏れるわずかな光も遮るように、
学校に行かなくなって、もう2日が経つ。
学校にいれば午前中の授業も終わり、昼食を終えた頃だろうか。
耳に直接音は届かない。それでも、あの日から研ぎ澄まされた彼の感覚は、部屋の外の微かな振動、遠くで響く車の気配、階下で家族が立てる生活の揺れを、頭の中で形のないノイズとして捉えていた。 それらは常に意識の片隅でざわめき、彼の心を休ませることを許さない。まるで、世界が彼に休息を許さないとでも言いたげに、途切れることなく続いていた。
廊下で
人生で初めて、「零れ星の音」とはいえ、音が聞こえるようになった。 そのこと自体が、彼にとってどれほどの喜びだったか。
これまで難聴のせいで、周囲に助けられてばかりだった自分が、初めて「音」を感知し、それによってさららの魔力を察知できると知った時、胸が高鳴るのを感じた。
まるで、自分もようやく誰かの役に立てる、特別な存在になれたかのように思えたのだ。あの時、確かに、心の中に傲慢なまでに浮かれた気持ちが芽生えていたことを、今なら理解できた。
しかし、その「音」が、無意識のうちにさららを危険に巻き込む行為だったのだと、今になって気づかされた。
自分の存在が、彼女の異変を誘発し、加速させていたかもしれない。もしそうだったとしたら、自分は彼女を助けているどころか、かえって彼女を危険な淵へと引きずり込んでいたことになる。俺がそばにいることが、彼女を危険に晒してしまうのではないか。そんな疑念が、彼の胸を強く締め付けた。
廊下でさららが倒れた時、自分は何もできなかった。
目の前で彼女が膝から崩れ落ちた時も、ただ呆然と立ち尽くすばかりで、手を差し伸べることも、支えることもできなかった。あの時の圧倒的な無力感が、鉛のように彼の体をベッドに縫い付けている。
「俺が彼女を巻き込んでしまったのに、何もできない」という自責の念が、底なしの沼のように彼を飲み込んでいく。
それは深刻な絶望とは少し違う、自分の存在そのものへの深い戸惑いと、未来が見えない閉塞感だった。
まるで、これまで頼りにしてきた足元が、突然崩れ去ってしまったかのような、途方もない喪失感に苛まれていた。
スマートフォンが、微かに振動した。
律が心配して何度かチャットを送ってきているのは分かっていた。メッセージを開けば、きっと心配の言葉が並んでいるだろう。だが、彼は返信する気力も、言葉を見つけることもできない。
兄の旭が部屋のドアの前まで来ている気配はあったが、彼が顔を上げ、目を見て手話で話さなければ、誰とも会話はできない。
この物理的な壁が、彼の孤独をさらに深く、そして決定的なものにしている。
世界から隔絶されたような感覚に囚われ、彼はただ、重い布団をさらに深く被るばかりだった。
律から奏雨と連絡が取れないことを聞いた旭は、弟の様子を案じていた。いつもの飄々とした態度の裏で、彼は静かに、しかし確実に奏雨の変化に気づいていたのだ。旭自身も、奏雨の部屋から漂う異様な静けさや、布団の中にうずくまる奏雨から滲み出る微かな緊張感と疲弊を敏感に感じ取っていた。
旭は奏雨がただの風邪や一時的な落ち込みではない、精神的な深い問題を抱え込んでいることを、兄としての鋭い観察力と、弟への深い理解によって察知する。
旭は、どこか気まぐれな風を装いながら、しかしその目には確かな意図を宿して奏雨の部屋の前に立つ。彼はドア横のランプを点灯させるスイッチを押し、その明かりが部屋の中を照らすのを待ってから、ゆっくりとドアを開けて中に入った。薄暗い部屋に、外からの光が差し込み、埃が舞うのが見える。
旭は明かりをつけ、奏雨が横たわるベッドサイドに立つ。
奏雨が布団を深く被っていても、無理に剥がそうとはしない。ただ、ベッドサイドにゆっくりと腰を下ろした。
旭は、奏雨が顔を上げなければ会話ができないことを理解している。
彼は焦らず、ただ静かに待った。
部屋に満ちる沈黙。
それは、奏雨にとっては外界のノイズよりも、はるかに重く、そして耐えがたいものだった。
その重みが、彼の心をわずかに揺らす。やがて、布団の奥からゆっくりと奏雨が顔を出し、諦めと疲労に満ちた目で旭に視線を向けた。その瞳の奥には、助けを求めるような微かな光が揺れていた。
旭は、奏雨の目を見て、ゆっくりと手話で話しかける。その手つきはどこか優雅で、表情は読みにくい。しかし、その動きの一つ一つには、弟への確かな気遣いが込められていた。
「《奏雨。……起きてたんだな。昼間から寝てばっかじゃ、体が鈍るぞ》。」
奏雨がわずかに反応したのを確認し、旭は手話で続ける。その言葉は、まるで彼の心を読み解くかのように、しかし核心には触れずに、静かに紡がれた。
「《お前が今、何に悩んでるか、何に落ち込んでるか……。そんなに深く考えるようなことじゃないだろ?》」
旭は心の中で
『まあ、何に悩んでるか大体は察しがつくけどな』
と唱えた。
奏雨の視線が、かすかに揺れる。旭はそれに気づきながらも、構わず言葉を重ねる。
「《あの子が倒れたこと、お前のせいだとでも思ってるのか? だとしたら、それはちょっと自己中心的すぎないか? お前が世界を動かしてるわけじゃない。それに、あんな状況で、誰かに全てを理解しろって言う方が無理な話だ。あの場にいた誰だって、お前と同じように戸惑ったはずだよ。》」
旭の言葉は、まるで水の波紋のように、奏雨の心を広げていく。自分だけが特別に無力だったわけではないのかもしれない、という、ごく小さな、しかし確かな希望が灯る。
「《お前が一人で抱え込もうとしてることが、どれだけ無謀か……。まあ、わかる奴にはわかるってことだ。全部を一人で背負い込む必要なんてない。そういうのは、真面目すぎるやつの悪い癖だ。》」
その言葉は、奏雨の肩にのしかかっていた重荷を、ほんのわずかだが軽くするようだった。
旭との手話での対話が終わりを告げた、その直後だった。
奏雨の感覚が、遠く離れた場所から届く心地よい「音」を捉えた。
それは、これまで彼を苛んでいた不快なノイズや雑然とした振動とは全く異なるものだった。
温かく、柔らかく、まるで透明な光が降り注ぎ、彼の心を満たしていくような響きとして感知される。この「音」は、彼の疲弊し、固く閉ざされていた心に、そっと温かく染み渡っていくようだった。
まるで、枯れた大地に恵みの雨が降り注ぐかのように、彼の内側が潤っていくのを感じた。
奏雨がその「心地よい音」に反応し、表情に微かな変化を見せたのを、旭は逃さず捉えた。彼の表情は依然として掴みにくいが、その瞳の奥には確かな輝きがある。
旭は手話で問いかける。
「《どうした? 今、何かあったか?》」
奏雨は静かに首を横に振った。
そして、再び奏雨の目を見て手話で続ける。
「《それが何にせよ、お前が目を背けてる間にも、日常は続く。お前には、お前だからこそ気づける何かがあるはずだ。だろ?》」
その言葉は、奏雨の持つ特別な感覚の可能性を、兄が理解していることを示唆しつつも、具体的な性質には踏み込まない。奏雨自身がその感覚の真の価値を見出し、もう一度、前を向くための、静かな問いかけだった。
兄の冷静な言葉。
そして、心地よい「音」。
それらが、絡み合った奏雨の思考を解きほぐしていく。
彼は「自分は一人ではない」という安心感と、「自分の特別な感覚には価値がある」という自己肯定感を、静かに取り戻していった。
かつて自分の慢心が生んだ結果に自責していた心に、「これは、僕にしかできないことだ」 という新たな、そして純粋な使命感が芽生え始めた。
彼はさららと共にこの「音」の世界に向き合おうと、心の中で決意する。
翌朝、奏雨は普段通りに学校の門をくぐった。
彼の足取りは、前日までとはまるで違っていた。
その背中は、ほんの少しだけ、だが確かに、以前よりも高く伸びているようだった。
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