学園試練編
第3話 囁く残響と、秘密の絵画
学園は、いつも通りの喧騒の中にあった。
昼休みの生徒たちの笑い声、授業の始まりを告げる鐘の音、そして廊下を慌ただしく行き交う足音。
それらは全て、
補聴器をつけても、世界は静寂に包まれたままだ。
彼にとって、音とは、耳の奥で感じる微かな振動であり、あるいは風が頬を撫でる感覚、地面を踏みしめる足の裏の圧力、視覚が捉える人々の口の動きや表情そのものだった。
世界は、無限の情報が、異なる感覚器を通して絶えず流れ込んでくる、豊かな情報の奔流だった。
しかし、最近、その静かで情報に満ちた世界に、説明のつかない微かな**「チリチリとした音」**が混じるようになった。それは、本当に微かに耳の奥で響くような、不規則でかすかな振動。
初めて感じた時は、補聴器の不具合かと思い、何度も電源を入れ直したり、耳に当て直したりしてみた。
しかし、音は消えない。
どうやら補聴器のせいではないらしい。
その「チリチリとした音」は、特に人がいない場所や、誰もいないはずの校舎の隅、あるいは人気のない階段の踊り場などで強く感じられた。まるで、見えない何かが、その場所に触れたり、通り過ぎたりした残りの痕跡であるかのように。
奇妙で、しかし明確な「何か」が、彼の世界にひそかに忍び寄っているのを感じ取っていた。
奏雨は、さららの魔法をあれから見ていなかった。
温室での秘密の出会い以来、彼女と個人的に深く関わる機会もなく、日常の会話が増えることもなかった。
だから、あの、まるで星が零れ落ちるような、美しく鮮明な「魔法の音」を聞くことは、まだ叶っていなかった。
しかし、心のどこかで、あの忘れがたい響きをもう一度聞きたいと、密かに願い続けていた。
それは、彼の「無音」の世界に、一筋の光が差し込んだような、唯一無二の体験だったからだ。
ある日の移動教室の途中、奏雨は
律はいつも通り、どこか気だるげで、表情は読めない。
しかし、彼の瞳は常に周囲の微細な変化を捉えていることを奏雨は知っている。
律の視線は時折、周囲の生徒たちの様子や、廊下の掲示物へと向けられていた。
律は異国とのハーフで、その顔立ちには微かに異国情緒が漂う。
「おい、奏雨」
律が、ふいに立ち止まった。
彼の視線は、廊下の壁に飾られた、学園の創設者であろう人物の肖像画に注がれている。
奏雨は律の口の動きを読み取る。
彼の唇は、普段よりも少しだけ固く結ばれているように見えた。
「この絵、前と顔が少し違う気がする」
奏雨は言われるがまま、肖像画を見上げる。
学園の長い歴史を見守ってきたであろう、古めかしい額縁に収められた、初老の男性の肖像画。確かに、よく見ると、創設者の髭の形が微妙に変わっているような、いや、全体の印象がどこか以前より困惑しているように見える気がした。まるで、絵の中の人物が、今の学園の異変に戸惑っているかのような。奏雨の五感は、その肖像画の周囲から、微かに、そして不規則に響く「チリチリとした音」を感じ取った。それは、絵の具が乾いたキャンバスの上で、無理やり混ざり合うような、ざらついた、どこか不気味な響きだった。
『そうかな?言われてみれば、ちょっと違うかも』
奏雨が端末にそう入力して律に差し出すと、律は短く「気のせいか」と呟き、また歩き出した。彼の表情は変わらない。
しかし、奏雨は律がその言葉を口にした瞬間、彼の瞳の奥に、わずかな探究心と、何かを見過ごせないような疑念の光が宿っていたのを感じ取った。
律は、ただの「気のせい」では済ませない、と奏雨は確信した。
奏雨も彼に続いて歩き出す。
廊下に残る、奇妙な肖像画の印象を微かに引きずりながら。
その時は、まだそれが単なる目の錯覚の延長だと、自分自身に言い聞かせようとしていた。
放課後、律は部活があるため、先に教室を出ていった。
放課後の校舎は、昼間とは打って変わって、静けさに包まれる。
奏雨は一人で帰宅しようと、いつもの廊下を歩いていた。
ふと、先ほどの肖像画が気になった。
気のせいだとは思ったが、律があれほど真剣な顔をしていたのだ。
それに、あの「チリチリとした音」は、彼の五感に明確に訴えかけていた。
もう一度、確認してみよう。彼の足は、自然と肖像画へと向かっていた。
肖像画の前に立つと、奏雨は目を瞬かせた。
息を飲むような衝撃。
やはり、いや、以前よりさらに変化している。
創設者の困惑した顔は、今や完全に逆さまになり、さらに片方の目が漫画のように大きく見開かれていた。その目からは、まるで涙がこぼれ落ちているかのような、滑稽な水滴まで描かれている。まるで、誰かが悪ふざけで描いたかのような、奇妙で間抜けな絵になっていた。
しかし、その奇妙さの中に、どこか不気味な違和感が宿る。奏雨の耳には、その絵の周囲から、以前感じた「チリチリとした音」が、より鮮明に、そして不規則に、まるで絵筆がキャンバスを引っ掻くような、不快な響きで聞こえていた。
それは、奏雨の無音の世界を乱す、確かな不協和音だった。
(これ、やっぱりただの気のせいじゃない。誰かの悪質なイタズラ?いや、それにしては……。でも、なんで……)
奏雨の脳裏に、さららの顔が鮮明に浮かんだ。
彼女のあの、星が零れ落ちるような魔法の光。
そして、その時に聞こえた、美しくクリアな”零れ星の音”。
彼女の魔法なら、こんな奇妙な現象も元に戻せるかもしれない。
それに、この「チリチリとした音」は、どこかさららの魔法と通じる気配を感じる。
奏雨は急いで教室に戻った。
彼の足音が、廊下にパタパタと響く。
まだ、さららが友人と談笑しているのが見えた。普段は彼女の周りを賑やかに囲む女子生徒たちも、今は帰り支度を始めて、人数も少なくなっていた。
さららは友人たちと別れの挨拶を交わすと、カバンを肩にかけようとしていた。
奏雨は駆け寄って、彼女の前に端末を差し出した。彼の顔には、焦りと、切迫感が滲んでいるのが、さららにも伝わっただろう。
『ちょっと、相談したいことがある』
さららは驚いたように目を見開いたが、すぐに優しい笑顔を向けた。彼女の表情は、いつも穏やかで、周りを和ませる力がある。
さららは奏雨の端末を受け取り、そのまま文字を入力する。
『どうしたの、奏雨くん? そんなに慌てて。何か困ったこと?』
『廊下の肖像画、見に行ったことある?』
奏雨が打ち込むと、さららは首を傾げた。
その仕草一つにも、戸惑いと、しかし奏雨を気遣う優しさが滲んでいた。
『肖像画? うーん、ちゃんと見たことはないかな……いつも通り過ぎちゃうから』
『それが、変なことになってて。もしかしたら、
奏雨が必死に、そして真剣な表情で説明すると、さららは少し不安そうな顔をした。彼女の瞳には、僅かな陰りがよぎった。
『私の魔法……? そう、かな……』
『とにかく、見てほしい。』
奏雨の強い要望に、さららはゆっくりと頷いた。
彼女は奏雨の真剣な表情から、事態の重大さを感じ取ったのだろう。
「わかった。行ってみよう」
二人は廊下へと向かった。
肖像画を目にしたさららは、「ええっ!?」と、素直な驚きの声を上げた。
しかしすぐにじっと肖像画を見つめた。
「これ……たぶん、魔法の仕業だ。」
さららが不安げに呟く。
『星宮がやったのか?』
さららは首を横に振る。
奏雨はそうだよなと思い静かに頷いた。
絵から感じる「チリチリとした音」がすることを説明しようと端末を打ち込んだ。彼の指先は、焦る気持ちを抑えるように、いつもより少しだけ早く動いた。
『この絵から、なんか不安定で、チリチリするような音が聞こえるんだ。
さららは奏雨の言葉を読み取り、真剣な表情で絵を見つめた。
彼女の瞳が、絵の奥に隠された魔力を探るかのように、細められる。
『そうなんだ……。このまま廊下に置いておくと、誰かに見られちゃうよね。明日になったら、大騒ぎになっちゃう』
さららの言葉に、奏雨も強く頷いた。確かに、こんな奇妙な絵を放置しておいたら大騒ぎになるに違いない。
『とりあえず、温室に運ぼう。あそこなら、放課後は誰も来ないし、誰にも見られずに魔法を試せる。』
二人は慎重に、しかし素早く肖像画を壁から外した。
肖像画は予想より重く、二人で息を合わせて運んでいく。
温室までの短い距離だが、奏雨は内心で焦っていた。
早く、この奇妙な状況を解決したい。そして、もう一度、あの「零れ星の音」を聞きたい。
温室の扉を閉め、誰も入ってこないことを確認すると、奏雨は肖像画を壁に立てかけ、さららに向き直った。温室のしっとりとした空気が、二人の間に漂う緊張感を少しだけ和らげる。
「これ、本当に私が直せるのかな……?」
さららは不安そうに掌を見つめる。その手から聞こえる「零れ星の音」は、期待と不安が入り混じったような、不安定な響きだった。まるで、小さな星々が、これからどう光るべきか迷っているかのように、細かく揺らいでいる。
『大丈夫。この絵のから鳴っている音をよく聞いておく。もしおかしくなったら教える。』
奏雨の言葉は、簡潔だが、その真剣な眼差しは、さららに確かな安心感を与えた。
さららはゆっくりと頷いた。彼女は深呼吸をして、意識を集中させる。
そして、肖像画に掌を向けた。
「……元に戻って……」
さららが集中すると、掌から淡い光が放たれた。
その瞬間、奏雨の耳に、待ち望んでいたあの「零れ星の音」が、久しぶりに、そしてクリアに響き渡った。きらきらと輝くような、澄んだ音。
それは、奏雨の無音の世界に、まるでオーケストラの調べが突然流れ込んだかのような、感動的な響きだった。奏雨は感動に打ち震え、その音の美しさに改めて心を奪われた。
(やっぱり、この音だ……!この音を、俺はまた聞くことができた……!)
しかし、その澄んだ音の中に、どこか微かに不安が混じっているのが奏雨には感じられた。
まるで、音の粒が完璧に揃いきらず、わずかに震えているような、微細な乱れ。
それは、さららの心に潜む、魔法への不慣れさや、成功へのプレッシャーが音となって表れているかのようだった。
『
なんか、焦ってるような音がする。
光が、少しだけブレてるのが見える。』
奏雨がすぐに端末に打ち込むと、さららはハッと目を見開いた。彼女は自分の掌から放たれる光が、確かに微かに揺らいでいることに気づいた。奏雨の言葉が、彼女の焦りを自覚させたのだ。
「焦ってる……? 確かにそうかも。 なんか緊張しちゃってた!」
さららは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
深呼吸を繰り返すことで、彼女の全身から余分な力が抜けていくのが、奏雨には空気の微細な流れで感じられた。
そして、肖像画を見つめながら、改めて集中する。
すると、奏雨の耳に聞こえる「零れ星の音」は、先ほどの不安定さが嘘のように落ち着きを取り戻し、よりクリアで安定した響きへと変わっていった。音の粒は、まるで正確に並べられた宝石のように、規則正しくきらめき、調和した響きを奏でる。
光も安定し、肖像画の歪みがみるみるうちに元に戻っていく。
見開かれた目は閉じられ、逆さまだった顔も正しい位置に戻り、髭も元の形へと戻っていった。全ての線が、まるで魔法にかかったかのように、本来の姿を取り戻していく。
完璧に元の絵に戻った瞬間、さららの掌から放たれる光は消え、奏雨の耳に響く「零れ星の音」は、達成感と、確かな自信に満ちた、心地よい響きを奏でた。それは、まるで新たな星が夜空に生まれ、力強く輝き始めたかのような、希望に満ちた音だった。
「戻った……! できた!」
さららが安堵と喜びに満ちた声で呟くと、奏雨も嬉しそうに頷き、端末に打ち込んだ。彼の表情もまた、達成感に輝いていた。
『すごい!完璧に元に戻った!
音がすごく落ち着いて、力強く聞こえた。
奏雨の素直な言葉に、さららは満面の笑みで奏雨に視線を向けた。彼女の頬は、微かに赤く染まっているように見えた。
「奏雨くんのおかげだよ! 音が乱れてるって教えてくれたから! ありがとう!」
奏雨は、自分の「音を聞く力」が、さららの魔法の制御にこれほど役立つことを改めて実感し、胸が熱くなった。彼の聴覚が、誰かの役に立つ。それは、彼にとって、何よりも嬉しいことであり、人生で初めての体験だった。
「ねえ、実はさ……」
さららが少し躊躇いがちに端末に打ち込んだ。奏雨は首を傾げる。彼女の表情には、まだ少し迷いがあるように見えた。
『この学園で、最近、なんだか変な『いたずら』みたいなことが、いくつか起きてて……。私が、気がつく度に、一人でこっそり対処してたの』
奏雨は驚いた。彼女は、不安そうな表情で言葉を続ける。その声は、奏雨には聞こえないが、彼女の口元が、普段よりも少しだけ硬く引き結ばれているのが分かった。
『この肖像画みたいに、美術室の絵が全部逆さまになってたことがあったり……』
『美術室の絵が逆さま?』
奏雨が思わず打ち返すと、さららは小さく頷いた。
『うん。それは修復の魔法で元に戻したの。あと、理科室の標本が入れ替わってた時は、移動の魔法で正しい場所に戻したり……』
さららは、次々と自分が対処した「いたずら」について打ち明けた。彼女の表情からは、秘密を抱え、一人で対処してきたことの重圧と、それを打ち明けた安堵が入り混じっているように見えた。まるで、ずっと心の奥にしまっていた重い荷物を、少しだけ下ろせたかのように。
そして、彼女が使った魔法の種類に、奏雨は少し驚いた。
修復、移動……どれも、今まで彼女が見せていた無意識の魔法とは異なり、明確な意図と、ある程度の集中力を必要とする魔法の使い方だ。
『そうだったんだ……。一人で大変だったね。
だから、時々校舎でチリチリする音がしてたのかな……。』
奏雨は、あの不規則な「チリチリとした音」の正体が、さららの魔法の残響、あるいは魔法が発動する際の微かな波紋だったのではないか、と直感した。まだ確信には至らないが、その可能性は高い。
『うん……でも、奏雨くんがいてよかった。これからは、一緒にできるから』
さららはそう言って、顔を上げた。
その瞳には、奏雨への揺るぎない信頼と、これからの希望が満ちていた。
彼女の「零れ星の音」は、以前よりも強く、そして安定した響きを奏でている。
それは、彼女の心が、秘密を共有し、協力者を得たことで、大きく前向きに変化した証だった。
「《こちらこそ》」
奏雨は手話で答え、二人は達成感に包まれて談笑した。彼らの間には、新たな秘密の繋がりが生まれた。彼の世界に、また一つ、新たな繋がりと使命が生まれた瞬間だった。
温室から肖像画を元の廊下まで戻し終えた後、二人はその絵の前で、しばし立ち話をしていた。成功した喜びと、秘密を分かち合った安堵感から、自然と笑顔がこぼれる。二人の間に流れる空気は、これまで以上に親密で、温かいものだった。
『これで、もう大丈夫だね』
さららが端末に打ち込むと、奏雨は頷いた。彼の表情も、どこか誇らしげに見えた。
『うん。
俺の無音の世界で、あんなに綺麗な音が聞こえるんだから。』
奏雨の言葉に、さららは「えへへ……」と照れたように微笑んだ。
『奏雨くんのおかげだよ。一人だったら、きっとこんなに上手くできなかったから』
二人だけの、小さな秘密と、それを乗り越えた達成感。
会話は弾み、彼らの間には温かい空気が流れていた。
まるで、世界から二人だけが切り離されたかのような、穏やかな時間。
その頃、校庭ではサッカー部の練習がちょうど終わろうとしていた。
いつものように、部室へと続く廊下へと目をやろうとした、その瞬間。
校舎の窓の向こう、自分たちが昼間に話していた肖像画の前に、奏雨と、隣に立つ星宮さららの姿が目に飛び込んできた。二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑い合っている。奏雨があんな風に、他の生徒と親しげに、しかも秘密を共有しているかのような雰囲気で話しているのは珍しい。まして、以前から律自身も気になっていた奇妙な絵の前で、だ。
律は、目を細めてその光景をじっと見つめた。彼の無表情な顔の奥には、いつもの観察眼の鋭さに加え、わずかな疑問が浮かび上がっていた。
「……何、やってんだ?」
律は静かに、誰に聞かせるでもなくそう呟いた。その声は、当然ながら窓の向こうの二人に届くことはない。彼はそれ以上近づくことも、声をかけることもせず、ただ遠巻きにその光景を見つめるに留めた。奏雨とさららは、彼の存在に気づくことなく、微笑み合っていた
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます