こぼれた星が聴こえる
かとりぃぬ
出会い編
第1話 静寂の日常、初めての”音”
薄明の空が、深淵の藍色から仄かな紫色へと移り変わる頃
古びた石造りの集合住宅の一室。
朝の光が窓から差し込み、壁に埃の舞う粒子を映し出す。
目が覚めると、
それは外界の音をわずかに拾い、ぼんやりとした響きとして
だが、それでも鳥のさえずりも、遠くの教会の鐘の音も、ほとんど意識に上ることはない。
耳が塞がれたこの世界で、奏雨は聴覚以外のあらゆる感覚を研ぎ澄ませて生きてきた。
肌で感じる朝の空気の冷たさ、焼きたてのパンの香ばしい匂い、そして窓から見える街並みの色合い。
古めかしい石造りの建物がひしめき合い、狭い石畳の路地が入り組んでいる。
どこまでも続く瓦屋根の向こうには、大聖堂の尖塔が空を衝いていた。
人々は質素な身なりで通りを行き交い、それぞれの日常を営んでいる。
地域の人々からは一定の信頼を寄せられている。
しかし、
高等科の教室。
教師の声はぼんやりとしか届かない。
「次の授業は『歴史学』。……お前、いつもこの時間眠そうだな」
隣から、ぶっきらぼうな声で言われた、と表情と口の動きでわかる。
彼の指が軽快に動く音は、
だが、ディスプレイに表示される文字が、教師の言葉を正確に紡ぎ出してくれていた。
口数が少なく、相槌も打たない。
だが、
彼の口数は極端に少ない。
自分の声が聞こえないため、無意識に発声を避けるようになったのだ。
そのため、周囲からは少し近寄りがたい存在に見られがちだが、本人はそれに慣れていた。
昼休み、教室の隅で生徒たちが集まって何かを話しているのが目に入る。
彼らの口がめまぐるしく動き、身振り手振りを交えているのがわかる。
内容までは理解できないが、時折、彼らが顔を見合わせて楽しそうに笑う様子や、真剣な表情をすることから、何かの噂話や、最近あった出来事を語り合っているのだろうと想像できた。
放課後、人通りの少ない裏庭を歩いていた時だった。
古びた学舎の裏手、忘れ去られたような古い温室の近くで、
これまで感じたことのない、微かな空気の震え。
それは、彼の研ぎ澄まされた感覚が異常を察知した証拠だった。
そして、その次の瞬間。
耳元の器具を突き抜けて、「カラン、コロン……チリン、チリン!」という、今まで聞いたことのない、鮮明で美しい”音”が響き渡った。
それは、まるで結晶が砕けるような、あるいは鈴が鳴り響くような……
この世界で唯一の、そして最高の響きだった。
音は、彼の鼓膜を直接揺らすのではなく、魂の奥に直接響くようだった。
音は彼の耳に、まるで道標のように導く。
温室の陰へと向かう。彼の心臓は、久しく感じなかった興奮で高鳴っていた。
音の発生源である温室の陰に辿り着くと、そこには一人の少女がいた。
彼女は、何かを終えたばかりのようで、肩で息をしていた。
その掌からは、未だに淡い光の粒が不規則に舞い上がり、宙で消えかかっていた。
その光の粒こそが、彼の耳にあの美しい”音”を届けているのだと、
少女は、その光を見つめながら、どこか不安げな表情を浮かべている。
少女は、突然の
彼女の顔には、何かを隠し通そうとする焦りと、深い恐怖が浮かんでいる。
「……誰? どうしてここに……!?」
少女の声が、
しかし、彼女の表情と声の震えから、その感情は痛いほど伝わってきた。
そして、消えかかった光の粒の名残を指差し、その美しさに打たれたかのように、手のひらを震わせながら示す。
「あの……光。あそこから、音?が……聞こえたんだ」
彼は、必死に身振りで伝える。
興奮と混乱が入り混じった彼の表情からは、ただならぬ衝撃が見て取れた。
少女は、
「音?」
少女の困惑した表情と唇の動きを読み取ることができた。
彼女は、見慣れない少年が、自分の光を目撃した焦りよりも、その光から「音」が聞こえたという事実に対して、衝撃を受けているようだった。
少女は、奏雨を温室の中へ促した。
彼女は困惑と少しの諦めが混じった表情で、口の動きでこう告げた。
「私の名前は
しかし、彼女が話す内容は、単語と単語の間に空白があり、正確な意味を捉えきれない部分が多かった。
複雑な説明を口の動きや伝わる振動で完全に理解することは、やはり難しかった。
彼は起動したチャットアプリを立ち上げ、さららに画面を向けた。
『すみません。耳が不自由で。文字で話せますか?』
さららは、
そして、すぐに頷いた。
彼女は端末を受け取ると、震える指で文字を打ち始めた。
『私は
さっき、私があなたに見られたのは魔法を使っているところ。
こんな力があるなんておかしいでしょ?
おねがい。誰にも言わないで。』
魔法。
理解した内容が、彼の胸に重くのしかかる。
だが、それ以上に、今まで誰とも共有できなかった”音”の正体が、目の前の少女の力なのだという事実に、心が震えた。
『俺は、
耳が不自由で、ほとんど音が聞こえません。』
さららは、奏雨が打つ文字を真剣な表情で見つめていた。
「そうなんだ……」彼女の声は、ただ事実を受け止めるだけのフラットな響きだった。
『だけど、貴方の光だけは違った。
あの光の粒から、たぶん一般的な人が聴こえてるときと同じくらいのクリアな音が聴こえた。
こんなことは初めてで、ごめん、ちょっと困惑してる。』
さららは、
彼女の顔に、安堵と、そして深い共感のような感情が浮かんでいくのがわかる。
「私の、魔法の音が……聞こえるの?」
さららが、再び口の動きで尋ねる。
「あの……私の魔法って、どんな音を出してるの?」
彼は、端末にいくつかの単語を打ち込んだ。
『美しく透明なものが弾けるように煌びやかだった。流れ星のようだった。』
『初めてちゃんと聴こえた音がこの音で、俺は純粋に嬉しい』
そして、さららの瞳を真っ直ぐに見つめた。
彼の表情は、言葉以上に雄弁だった。
さららは、魔法が使えるようになってから抱えていた孤独を、初めて誰かが分かち合ってくれたと思った。
外界からは理解されない、しかし確かな繋がりが、二人の間に生まれた瞬間だった。
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