『ラフテー』

ばこ。

プロローグ

 ラフテーを食べている時、僕はきまって、ある一日を思い出す。


 煮込んでいる最中に立ちのぼる、あの香ばしくて、ほんのり甘い匂い。

 それが部屋いっぱいに満ちていくと、まるで時間が巻き戻されるように、記憶の扉がふいに開くのだ。

 今年も夏が来た。扇風機の音がゆるやかに回り、蝉の声が窓の向こうから遠く響いている。


 キッチンの隅には、母からもらった一枚のメモがある。

 黄ばんだ紙の端には、小さく丸い字で「ラフテーの作り方」と書かれていて、その下に「泡盛がなければ料理酒でもいいよ」と、まるで笑い声のような軽さで添えられている。


 母の字を見るたびに、心が少しだけ軋む。

 それは懐かしさからか、それとも、言葉にならなかった思いの名残なのか、自分でもうまくわからない。

 ただ、確かに覚えている。

 小学四年生の夏休み、家族で初めて行った沖縄旅行。

 あのときの空の青さと、強い陽射しと、そして──夕方、父がいなくなって、母とふたりきりで食べた、あのラフテーの味。


 家族の記憶は、なぜかいつも、にぎやかな場面よりも、ふとした沈黙や、目をそらされた瞬間に宿っている気がする。

 言葉にしなかったこと、目をそらしたもの──それらを、僕はずっと抱えて生きてきたのかもしれない。


 鍋の蓋を開ける。湯気の向こうに、あの夏の夕暮れが浮かぶ。

 母が僕の皿にそっと肉をよそってくれた、あの手元の光景。

 そして、何も言わずに笑っていた、あのときの自分。


 ──今夜も、僕はあの日を噛みしめるようにして、ゆっくりとラフテーを食べる。

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