第1章 それでも星の光を見ていたい

第1話 レーゲンフルーフ

 カルナは月夜の砂漠を駆けている。


 一度だけ、ちらと背後を窺う。

 槍を手に、黒い鎧で全身を覆った集団が早足で追いかけてきていた。


「ひっ……!」

 ぞっと、全身が粟立つ。血が凍りつく。

 鎧を纏う硬質な足音が一定のリズムで迫ってくる。


 もう振り返らず、走る。逃げることに専念する。

 背後に迫る足音を振り切るようにカルナは走った。

 どうして、と悲鳴のような疑問を心の中で叫んだ。


 この辺りは砂漠が広がる辺境で、盗賊すら滅多に現れない。武器を持った一団が堂々と娘ひとりを襲うなんてこと、今までは一度もなかった。

 全身に恐怖が突き抜けるが、不気味な一団に追いつかれる最悪の結末から逃れるために必死に走った。


 間の悪いことに参道に人気がない。普段なら何人かの往来があるはずなのに。

 走りにくい砂の上で、足に力を入れるせいで疲労が足腰に積み上がる。

 上がりきらない足がもつれ、カルナは前のめりに倒れ込んだ。

 冷たい砂に手のひらや腕を打ちつける。後ろに首を巡らせると、黒い鎧の兵団はすぐ傍まで迫ってきていた。


 黒い兵たちが一斉に槍の矛先をカルナに向ける。

 もう駄目だと思った。

 恐怖が全身を支配する。身を縮ませ、カルナは目をぎゅっと閉じた。


 甲高い金属音が響いた。だが身体には衝撃も痛みもない。

 カルナはそっと目を開ける。


 目の前に男が立っていた。

 刀身が大きく反ったサーベルを手に、黒い兵たちと対峙している。柔らかい男の声が降ってきた。


「動かないで」

 男は黒い兵に向かっていく。相手が突き出した槍を男は剣で弾き飛ばす。そして鉤のような剣の刃先を兵の首に引っかけて薙いだ。

 彼は流れるような軽やかな動きで、五、六人の集団をひとりであっという間に倒してしまった。


 カルナはその場に座り込んだまま、呆然とした。

追われて、死にかけて、助けられて、目まぐるしく状況が移り変わるせいで感情が追いつかない。

 剣を腰に収めてから男がこちらを振り返った。


 月が明るいせいで男の容姿がはっきりとわかる。

 癖のある長い赤髪を流した体格のいい男だった。

 ビーズの装身具を耳や首元にたくさんつけている。彼が動くたびに装身具が小さく音を立て、鳥の羽根で作られた髪飾りが髪と一緒に揺れた。


 細やかな文様が随所に縫い取られた衣服は見慣れない。外国から来た旅人だろうか。赤褐色とまではいかないが、健康的に日焼けした浅黒い肌をしている。

 骨ばった顎の線や太い眉は勇壮さを感じさせるが、目元は柔らかい。人好きのする明るさがその青い瞳から感じ取れる。


 男はカルナの前にやって来ると手を差し伸べた。

「怪我はないかい」

 カルナを安心させるためか、声音はとても優しい。

 おそるおそる手を伸ばすと腕を引かれた。立ち上がりながら、骨ばって力強い手の感触に内心で驚いた。


「あの、ありがとうございます」

「間に合ってよかった。僕はレーゲンフルーフ。旅人だ。長いからレーゲンでいいよ」

「あ……、私は、カルナ」

 レーゲンは気さくな人のようだ。襲われた直後なのに、心を落ち着けて話すことができる。


「君は、この先の神殿の巫女かな」

 カルナは素直に頷いた。神殿で使うお香が切れそうだったので、隣町まで買いに来たのだ。

「いくら神殿から近くても、砂漠をひとりで出歩くのは危ない。神殿に帰るのなら送っていくよ」

「でも、旅の途中の方に悪いわ」


 怖い目に遭ったばかりだから彼の申し出は願ってもないものだったが、寄り道をさせるのは心苦しい。

「神殿には参拝に寄る予定だからちょうどいいよ。それにまたあの妙な兵が現れるかもしれないしね」


 寄り道にはならないと言われると断る理由もない。何よりあの兵たちにまた襲われるかもしれないという恐れが、カルナの背を後押しした。

「それじゃあ、よろしくお願いします」

 レーゲンは頷くと、少し離れたところから駱駝の手綱を引いてきた。この辺りまで来るには砂漠の海を越えなければならない。旅のために用立てたのだろう。


 レーゲンに勧められるまま、カルナは駱駝に跨った。

 神殿でも駱駝を飼っているから騎乗はできる。

 カルナの後ろにレーゲンが乗ると、彼は手綱を掴んで駱駝を軽く走らせた。


 左右には等間隔に柱が並んでいる。

 辛うじて道だとわかる砂の参道を駱駝は進んでいく。

 夜の砂漠は冷たく、静けさに満ちている。

 銀色の砂丘がなだらかな山々を作り、その背後には眩い光を放つ三日月が浮かんでいた。


 ここは月神ナンナを祀る領域。

 この地域一帯は月の魔力に満ち、長時間夜に閉ざされる。この地域を離れると太陽が昇る地域へ出て、黄金色の砂漠が広がるというのだから不思議である。


「レーゲン様は、ここには参拝にいらしたの?」

「ああ。せっかくオスタール国へ来たからには、夜が明けない町ナフテハールを見てみたくてね。南方とは違って、静かで落ち着く場所だ」

 あと涼しくていいとレーゲンは声を上げて笑った。

 第一印象の通り、陽気な性格らしい。


「カルナはずっと神殿で暮らしているの?」

「ええ。夜が長いけれどいいところよ。神官も巫女も、参拝者の方も、みんないい人たちなの。あと、月に照らされる真っ白な神殿と夜の花が、綺麗な場所」

「それは見るのが楽しみだな」

「レーゲン様は、どうして旅を?」

「人を捜しているんだ。ずっとね」


 やがて月明かりに染まる白亜の神殿が見えてきた。左右の石柱は神殿の入口である塔門まで続いている。

 門の前は広場になっていて、脇に厩舎や参拝者のための露店もある。

 駱駝を降りると、厩舎へレーゲンの駱駝を繋ぎに行った。


「あの、レーゲン様、ぜひ神官長様に会っていって。助けてくれたお礼をしたいもの」

「お礼なんて気にしなくてもいいのに」

「旅の方をもてなすのも巫女の務めだから」

 カルナは彼にぜひ、と勧めて塔門を潜った。


 入るとすぐ中庭で、樹木や花が多く植えられている。夜に咲く白い花が月光を受けて仄かに光っていた。

 道の脇には蝋燭をまとめて灯している。蝋燭から漂う清香が鼻先をくすぐった。

 カルナにとっては見慣れた、自慢の美しい風景である。


 見知った神官と巫女がいて、通りがかると「おかえりカルナ」と声をかけてくれる。カルナはそれに「ただいま」と返しながら中庭を進んだ。

 参拝者たちもほぼ顔見知りで、すれ違った彼らと挨拶を交わしながら二人で神殿の中へ入った。中庭の突き当たりにある建物は月光が届かなくて薄暗い。

 そこに参拝者が並んでお参りをしていた。


 神官長はすぐに見つかった。

 お祈りをする参拝者もいるので、カルナはそっと近づき小声で話しかけた。

「神官長様、ただいま戻りました」

「ああ、おかえりカルナ」


 白い衣服に身を包んだ褐色肌の神官長ユスフは、カルナが来るなり顔を綻ばせた。近頃目元の皴が増えた四十絡みの男である。

 助けてくれた人に会ってほしい、お礼をしたいとカルナが言うと、彼はすぐに場を整えてくれた。


 カルナは神殿の奥の部屋にレーゲンを通した。

 見事な織物の絨毯の上にレーゲンを誘う。

 壁のかわりに柱が連なるこの部屋は、月光が入って眺めもいい。人をもてなすのに使う場所なのだ。カルナは厨房で用意してもらったたくさんの料理を部屋に運び入れ、レーゲンの隣に座った。


 ユスフがレーゲンと向かい合い頭を下げる。

「カルナから聞きました。危ないところを助けていただき、ありがとうございます。こういうものしかありませんが、好きなだけ食べてください。もちろん、今晩は神殿に泊まっていってください」


 ナツメヤシ酒に羊肉の串焼き、薄焼きのパン、スパイスで味つけしたキャベツとトマトの蒸し料理、イチジク。それらが大皿に盛られ、絨毯の上に広げられた。

 神殿は川からの水を引いているので作物もよく育つが、こんなにたくさんの料理を並べるのは客人をもてなすときだけだ。


 レーゲンが手にした盃にカルナはナツメヤシ酒を注ぐ。彼はありがとうと言って早速杯を傾けた。

 レーゲンはナツメヤシ酒を飲むと羊肉の串焼きに手を伸ばし、美味そうに食べた。


 ユスフもナツメヤシ酒を嬉しそうに飲む。神官は来客や儀式などのとき以外酒を飲まないので、ご相伴が嬉しいのだろう。

「レーゲンフルーフ殿とおっしゃいましたな。剣の腕の達人とか。カルナは実に幸運でした」

「他に能がないだけさ」


「弓もお使いになる」

 ユスフはレーゲンが自分の傍に置いた弓に視線を投じた。

 最初から彼は弓を肩にかけていた。弓の存在自体は認識していたが、色々なことが起こりすぎたせいでカルナはあまり気に留めていなかったのだ。


「月神ナンナが貴方をお守りくださるよう祈ります。お好きなだけ滞在していってください。明日神殿内をカルナに案内させましょう」

 ユスフは明るく歓迎の言葉を並べる。

「こちらこそ、せっかく来られたのでじっくり参拝させてもらえると嬉しいよ」


「それで、カルナを襲ったのはどういった集団だったのですか?」

 一拍置いてユスフが尋ねる。

 当たり障りのない前置きから入ったが、本題はこちらだろう。カルナも一緒に、襲われたときの状況を彼に話した。


「顔も含めて黒い鎧で全身を覆っていました。十人以下の集団で、隣町を出て参道に入ったところで突然現れて、怖くて逃げたら追いかけてきたんです」

「黒い鎧の兵らしき集団? このナフテハールの地域でそんな奴らの話は聞いたことがないが……」


 ユスフが唸るのももっともだ。

 このオスタール国の軍は、南方の商業都市国家オスタールの議会が握っている。

 各町に自警団くらいはいるが、どちらにせよ、遠いナフテハールまで来て巫女ひとりを襲うとはカルナにも思えなかった。


「他国の軍でしょうか」

 カルナがそう言うと、ユスフは首を横に振った。

「いや、他国の軍隊が勝手にオスタールに入り込んで神殿の巫女を襲うなんて、ありえないだろう」


 この世界にある十三の神殿は、国ごとに管理が任されているとはいえ、世界共通で信仰の柱として大切にされている場所だ。

 個人的な恨みから諍いに発展するならまだしも、他国から来て巫女を襲う理由はそうあるものではない。


 レーゲンもユスフの意見に賛成のようだ。

「誰かに雇われた刺客の可能性もあるよ。まあ、わからないことを推測で話しても仕方ないさ」

 そこで黒い兵士たちに関する話は途切れた。カルナがレーゲンの盃にナツメヤシ酒をもう一杯注ぐと、彼は盃を一気に飲み干した。



 少し豪勢な夕食を三人で食べ終えた。

 レーゲンを客室に案内した後、カルナは自室から星空を眺めた。

 カルナは星を見上げるとき、無力感や絶望といった心の暗がりを覗き込むような憂鬱な気持ちになる。

 紺碧の夜空に浮かぶ小さな星の光を見ていると、頭の中で自然と文字列が浮かんできた。


 ――月を祀る聖域、神を崇めし者は血の禍に伏す。

 ――黒き鋼を鎧う兵団、月を祀る聖域に迫り来る。

 ――十二星座の紋章を持つ者が集うとき、〈海の女王〉が目覚める。空からはすべての星が堕ち、海がすべての大地を呑み込み、海だけの世界が訪れる。


 それらの不吉な文字列を読むと、カルナはすぐに星空から目を逸らした。

 昔からそうだった。カルナが星を視ると、星によって定められた世界の運命が視えてしまう。


 星の運行など天空で起こる現象は、地上で起こることの予兆とされる。星空を視れば、人や物事の未来を詠むことができる。


 それが〈占星術〉と呼ばれる秘術だ。


 星を詠むためには世界で最も希少な星の魔力が必要だ。どんな偉大な魔法使いでも、星の魔力を持たない者に占星術は使えないという。

 遥か古代では占星術師たちの都が発展していたというが、その文明も既に廃れた。現代、占星術で人の運命を詠める者は世界にほんのひと握りだという。


 カルナは希少な星の魔力を持って生まれた。

 星を視れば様々な運命を詠むことができた。

 だが、星空に浮かんだ運命は変えることができない。


 しかも不便なことに、読み取れる内容が曖昧なことが多いし、いつどこで誰に起こるか、わからないことも多い。知りたい未来が何でも視えるわけではない。

 星詠みは突然風向きが変わるのを感じ取るようなものであり、ピンポイントで視たい運命を詠み、人の不幸を避けるための方策を探るものではないのだ。


 不吉な予言はこれまで何度もカルナの頭上で光り輝いた。

 そして一度表れた星の配置は少しずつ動いて、また別の予言をカルナにもたらす。


 しかも、星に表れるのは人の生死や怪我、国の衰亡に関わることなど、不吉な出来事ばかりだった。

 未来の運命を知っていても、相手に予言の内容を教えても、注意しても、星の運命は絶対に変えられない。


 今の予言も「月を祀る聖域」がこのナンナ神殿を指し示しているなら、「兵団が迫り来る」や「血の禍に伏す」などという言葉から、人の生死に関わる危険な出来事が連想できる。不吉な未来は避けられない。


 遠い天空で瞬く運命を前に、カルナは重たく暗い気分のまま途方に暮れるしかなかった。

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