第5話 絶望の淵で、私はあなたの『薬』になると誓う

「――させない……!」


震える声で絞り出した私の言葉は、静まり返った温室の中で、やけに大きく響いた。夕暮れの赤い光が、黒崎荊くんの銀色の髪を不気味に照らし出している。彼の前に立ちはだかる私は、きっと、嵐の前の小さな雛鳥みたいに見えているに違いない。足はガクガクと震え、心臓は今にも破裂しそうなくらい、うるさく鳴り響いている。


(怖い、怖い、怖い……!)


目の前にいるのは、ルキを裏切り、何百年も彼を孤独な眠りの中に閉じ込めた張本人。その冷たい瞳に見つめられるだけで、全身の血が凍りつきそうだ。

でも、逃げるわけにはいかない。私の背中には、ルキがいるのだから。


黒崎荊くんは、そんな私を見て、まるで面白い玩具を見つけたかのように、その美しい唇の端を吊り上げた。


「……お前のような、虫けらが。僕を相手に、何をするつもりだ?」


ぞくりとするほど冷たい声。見下され、嘲笑われているのが痛いほどわかる。


「ルキには……あなたなんかに、指一本触れさせない……!」


震えを必死に抑え込み、私は睨みつけるように言い返した。その時、背後からルキの低い声が聞こえる。


「ヨウ、どけ。お前がどうこうできる相手じゃない」

「嫌……!」

「言うことを聞け!」


ルキの声には、焦りの色が混じっていた。でも、私は動かない。ここで私が引いたら、ルキはまた一人で戦おうとしてしまう。そんなの、絶対に嫌だ。私がいる意味がなくなってしまう。


私のかたくなな態度に、荊くんはますます面白そうに目を細めた。

「ほう……。そのひ弱で、どこか覚えのあるマナ……ああ、そうか。お前が、あの『咲かせられない令嬢』か。小鳥遊家の」


私の素性はいとも簡単に看破されてしまった。彼は、私の手の中にある『陽だまりの微笑み』の鉢に、すっと視線を移す。


「まだそんなもので遊んでいたのか。……いいだろう、見せてやる。本物の『力』というものを」


荊くんが、ぱちん、と優雅に指を鳴らした。

その瞬間。

温室の空気が、死んだ。


ぞわり、と肌を撫でたのは、濃密な死の気配。彼の足元から、音もなく、漆黒の茨が何本も、何本も、まるで生きている蛇のように伸びてきた。そして、温室中に張り巡らされた植物たちに、一斉に絡みついていく。


「あ……あ……」


悲鳴さえ、声にならない。

私が毎日、一生懸命お世話をして、少しずつ元気を取り戻していた緑の葉が。希望の光を灯し始めていた小さな蕾たちが。黒い茨に触れられた瞬間から、バキバキと音を立てるように、その生命力を吸い取られていく。鮮やかな緑はどす黒いシミに変わり、瑞々しかった花びらは、まるで燃え尽きた紙のように、チリチリと縮れていった。


「やめて……! やめて……!」


私の涙の叫びなど、彼には届かない。温室は、あっという間に、生命力に満ちた楽園から、死の匂いが立ち込める墓場へと姿を変えてしまった。


そして、その黒い魔の手が、ついに私の手の中にある鉢植えへと伸びてくる。


「いやっ!」


私は必死に『陽だまりの微笑み』の鉢を抱きしめた。私のなけなしのマナを、盾にするように、全力で注ぎ込む。お願い、この子だけは守らせて!


でも、私のちっぽけな抵抗など、巨大な闇の力の前では、まるで無意味だった。黒い茨は、私のマナの壁をいとも簡単に突き破り、その棘のある先端で、柔らかい蕾に、そっと触れた。


その、瞬間。


ぽとり。


私が一週間、希望を託し続けた、大切な蕾が。まるで悪夢の一場面みたいに、あっけなく黒く変色し、力なく、鉢の土の上に落ちた。

私の希望が、音を立てて砕け散った瞬間だった。


「あ……あ……あ……」


目の前の光景が信じられなくて、ただ、呆然と、落ちた蕾を見つめる。涙も出ない。何も考えられない。頭の中が、真っ白になった。


「――荊ッッ!!!!」


その時、私の背後で、溜まりに溜まった怒りが、ついに爆発した。

ルキの体から、今まで見たこともないほど強烈な、翠色のマナの嵐が吹き荒れる! その光の衝撃波は、温室中に絡みついていた黒い茨を、一瞬にして薙ぎ払い、消し飛ばした。


「ぐっ……!」


さすがの荊くんも、不意打ちの全力攻撃には、少しだけ体勢を崩したようだ。でも、それだけ。

対するルキは、そのたった一撃で、持てる力の多くを消耗してしまったらしかった。ぜえ、ぜえ、と激しく肩で息をし、苦しそうに咳き込んでいる。まだ、彼の力は、完全じゃないんだ。


その姿が、私の胸をナイフのように抉った。



「……なんだ、その程度か。やはり、お前はまだ不完全なままだな」


荊くんは、何事もなかったかのように服の埃を払うと、その唇に、またあの冷たい笑みを浮かべた。その余裕の態度が、ルキをさらに苛立たせる。


「今日のところは、挨拶代わりだ。せいぜい、その小娘とのおままごとでも楽しんでいるがいい」


挑発するような言葉を残し、荊くんは踵を返す。もう、用は済んだとでも言うように。

私は、ただ、膝の上にある、黒く枯れてしまった蕾の残骸を見つめることしかできない。絶望で、指一本動かせなかった。


その、私のすぐそばに、荊くんが屈み込んだ。

そして、逃げることのできない私の耳元に、悪魔が囁くように、その唇を寄せる。


「……覚えておけ」


その声は、ひどく甘く、そして、残酷だった。


「お前がアイツの傍にいればいるほど、アイツは弱くなる。お前のその弱いマナは、光の力を蝕む。……お前は、アイツにとっての『毒』だ」


毒。


その一言が、私の心臓に、氷の杭のように打ち込まれた。

ぞっと、全身の血の気が引いていく。私が、ルキの、毒……?


荊くんは、私の反応に満足したように、くつくつと喉の奥で笑うと、今度こそ本当に、静かに温室から去っていった。


後に残されたのは、まるで嵐が過ぎ去ったかのような、無残な光景だけ。枯れ果て、黒ずんだ植物たちの亡骸。膝の上で、希望のかけらもなくなった、黒い蕾。そして、絶望に打ちひしがれる私と、怒りと無力感に苛まれる、傷ついた王子様。


「…………」

「…………」


どちらも、何も言えなかった。温室の中を、重くて、痛い沈黙が支配する。


やがて、消耗した体で、ルキがゆっくりと私に近づいてきた。私は、彼の顔を見ることができなかった。俯いて、ただ、自分の膝の上を見つめる。


「……ヨウ」


不意に、名前を呼ばれる。いつもは「おい、人間」とか「ヨウ」とか、ぶっきらぼうに呼ぶくせに。今の彼の声は、ひどく優しくて、それが逆に私の胸を締め付けた。


「怪我は、ないか」


不器用な、彼なりの気遣いの言葉。

いつもなら、その一言だけで、嬉しくて舞い上がってしまったかもしれない。でも、今の私には、その優しさが、鋭いガラスの破片のように、心に突き刺さった。


(毒、毒、毒……。私が、毒……)


荊くんの言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。

そうだ、私のせいだ。私が弱いから。私がここにいたから。私がルキの傍にいたから、彼は力を出し切れなかったんだ。温室の植物たちも、この『陽だまりの微笑み』も、全部、私のせいで……。


そう思った瞬間、我慢していた涙腺が、決壊した。


「ごめんなさい……っ」


ぽた、ぽた、と、大粒の涙が、黒く枯れた蕾の上に落ちて、虚しいシミを作っていく。


「ごめんなさい……私の、せいで……温室が、こんなことに……っ」

「お前のせいじゃない!」


ルキの、強い声が響く。彼は、私の隣に屈み込むと、私の肩を掴んだ。


「アイツが、荊が悪いんだ! お前は、悪くない!」

「でも! でも、私が、弱かったから……! 私が、あなたの足手まといに……あなたの、毒に……!」


言ってしまってから、はっと息を呑む。ルキの翠色の瞳が、悲しそうに揺れたのがわかった。

もう、ダメだった。一度溢れ出した涙は、止まってくれない。私はただ、子供のように、声を上げて泣きじゃくることしかできなかった。


その日、私とルキの間に、初めて、深くて、冷たい溝ができてしまった気がした。



寮の部屋に戻っても、私はベッドの上で膝を抱えたまま、動けなかった。

一睡もできなかった。目を閉じれば、黒い茨に覆われていく温室の光景と、「お前は毒だ」という荊くんの声が、繰り返し再生される。


私のせいだ。

私が、ルキを弱くしている。


その事実が、鉛のように、私の心に重くのしかかる。

もう、彼の傍にいてはいけないのかもしれない。私がいる限り、彼は荊くんに勝てない。私が、彼から光を奪ってしまう。


(そんなの、嫌だ)


じゃあ、どうすればいいの?

このまま、罰として押し付けられた温室の管理を放棄して、すべてを忘れて、また元の『落ちこぼれ令嬢』に戻る? ルキのことなんて、最初から知らなかったフリをして?


(……絶対に、嫌だ)


それだけは、絶対に嫌だ。

彼と出会って、私の世界は色づき始めたんだ。ムカつくことばっかりだったけど、でも、確かに、私は前を向けていた。彼のおかげで、諦めかけていた夢を、もう一度追いかけようと思えたんだ。


その彼を、見捨てるなんてこと、できるはずがない。


なら、どうする?

このままじゃ、私はただの足手まとい。ルキにとっての、猛毒でしかない。


「……毒、か」


ぽつりと、呟く。

そうだ。私は、毒なんだ。弱くて、ちっぽけで、彼の光を蝕む、ただの毒。


……でも。


ふと、顔を上げる。窓の外は、もう白み始めていた。夜明けの光が、部屋の中に差し込んでくる。


(だったら……)


私の頭に、一つの考えが、まるで稲妻のように閃いた。


(毒なら、薬に、なればいいんじゃない……?)


そうだ。毒と薬は、表裏一体。扱い方次第で、猛毒は、最高の良薬にもなり得る。昔、お父様の書斎で読んだ、古い薬学書にそう書いてあった。


弱くて、何の力もない私でも。

この「毒」としての性質を、逆手に取ることができれば。

ルキを守るための、「薬」になれるかもしれない。


そう思った瞬間、絶望で真っ暗だった私の心に、一条の光が差し込んだ気がした。

落ち込んでいる暇なんてない。泣いている場合じゃない。


私はベッドから飛び起きると、制服に着替えた。

もう、迷わない。


私が向かったのは、いつもの秘密の温室じゃなかった。

学園の、巨大な図書館。その一番奥にある、禁書庫と呼ばれるエリア。そこには、プランツドールや、禁忌とされた古代の魔法園芸術に関する、貴重な文献が眠っていると聞いたことがあった。


司書の先生に頭を下げて、特別に入室許可をもらう。埃っぽい、古い紙の匂いが満ちた静寂の中で、私は一心不乱に、文献を探し始めた。


手がかりは、何でもいい。

私が、強くなるための方法。

私が、ルキを守るための力。


「私が、あなたの『薬』になってみせる……!」


震える唇で、私は固く、固く、誓った。

荊くんに言われた、絶望の呪い。

それを、希望の祝福に変えてみせる。

落ちこぼれ令嬢の、意地と、覚悟をかけた、私の本当の戦いが、今、始まろうとしていた。

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