第三章 第三話
夜になり、そろそろ落ち着いただろうかという頃合いを見計らい、
温かいお茶を淹れて差し出すと、
「あの……やっぱり奥さんと直接話したほうがいいと思います」
「放っておいてくれ。もう俺の人生は終わったんだ。あいつだって、俺に会いたかないだろう。今更話したところで、どうしようもねえ」
「最期に会って今まで言えなかったことを伝えれば、奥様の気持ちにだって変化があるかもしれませんよ」
「言ったところで、向こうは忘れちまうんだろう? あんた、そう言ってたじゃないか」
「確かに、ここに来た記憶はなくなってしまいます……ただ、記憶に残らなくても、心に残るものはあるはずです」
宿を出たあとは、亡者は黄泉の国へ向かい、ここに呼ばれた人は元の日常へ戻る。ここで過ごした最期のひと時の記憶は、どちらからも消えてしまう。
それでも、記憶には残らなくても心には残るものはきっとある。そう思うのは、
ここに呼ばれてくる人は、亡者と同じように仮の肉体だけれど、魂だけはその人自身のものだ。ここで過ごした時間も、ここで聞いた言葉も、ここで生まれた感情も、すべて自身の心で経験している。
たとえ記憶から消えたとしても、心に刻まれた経験は意識せずとも残っているのではないだろうか。
「それに、お客様がどうしたいかが大切だと思います。たとえ、奥様が会いたいと思っていなくても、これまでの後悔を消すことはできなくても。もしお客様が感謝を伝えたいなら、そうしたほうがいいと思うんです」
「これが、奥様に気持ちを伝える最後の機会です。お客様は、どうしたいですか」
結局、決めるのは
会ったほうがいいと思うのはあくまで
やがて、小さく息を吸って、
「……呼んでくれ」
ぽつりと呟いた後で、
「
ここに呼ばれた人は、誰でも最初は夢だと考える。自分の頬をつねって夢じゃないと自ら悟ってくれる人もいれば、丁寧に宿の説明をしたうえで納得してくれる人もいる。
ほとんどの人は、あなたに会いたがっている人がいると伝えると、そこで呼ばれた意味を理解する。
呼ばれる側も会いたいと思っていた場合は話が早い。夢かどうかはさておき、自らすすんで会わせてほしいと言ってくることもある。
門の前に現れた
今、
料理をひとつ運びに行っては様子を窺っているのだが、二人の会話は弾んでいるようには見えなかった。
これは、少し外からの手助けが必要かもしれない。台所で盆に料理をのせながら、どうしたものかと考えていると
「
「今、食事をしているんだけど……あの感じだと、お礼を言えないまま朝を迎えそう」
ある程度予測はしていたのか、
「それ、運ぶの? 手伝うよ」
「いいの?」
「うん、ちょうど手が空いたから」
一人では一度に運べなさそだったので、二回に分けて持っていこうと思っていたところだった。「ありがとう」と言って、素直に申し出に甘えることにした。
料理を持って部屋を訪ねても、まだ二人の間に会話はないようだった。筍とふきのとうの天ぷらを二人に提供しながら、
「お好みで、お塩か天つゆを付けて召し上がってください」
話のきっかけになってほしいと願いながら笑顔で伝えると、
「ここのお料理、本当にどれも美味しいですね。こんなに美味しいご飯を食べたのは、結婚してすぐの旅行で泊まった宿以来かも」
凛とした印象は変わらないけれど、どこか親しみのある微笑みに少しほっとする。堅い雰囲気の
どうやら二人は新婚の際に旅行にでかけたらしい。結婚当初の思い出に触れられる絶好の話題だと、
「結婚を記念に旅行に行かれたんですか。素敵ですね。どこに行かれたんですか?」
「
自然な流れで、
「ふん……あれ以来、旅行に行ってないんだから、そりゃ一番になるさ。仕事が忙しかったんだ。仕方がないだろう」
「ええ、わかっていますよ」
なんて素直じゃない人なのだろう。きっと本当に言いたいことは違うはずだ。もっと別の言い方がいくらでもあるのに。
はがゆく思っていると、一緒に料理を提供していた
「そこは、『旅行のひとつも連れていってやれなくて、すまなかった』でいいんじゃないですか」
そんな視線をものともしないで、
「そういえば、お客様。奥様に何かお伝えしたいことがあってお呼びしたんですよね」
いきなり本題を切り出した。
「あら、そうなの?」
「ああ、どうしても、お前に言っておきたいことがあって、来てもらったんだ……」
あまりに真剣な表情に、
「
「……はい」
「い、今まで……」
見ているこっちまで緊張してしまうほどだ。
「い、い……今まで取引があったところに、連絡はしたのか?」
鏡池を通じて見たいたのだから、
「ちゃんと、済ませましたよ。留守の先方もありましたけど、後日改めてご挨拶に向かう予定です」
「そうか。それならいいんだ……」
沈黙が流れかけたところで、
「ちょっと、失礼します」
洗面に向かったようなので、ここぞとばかりに
「お客様、この宿にいられる時間は限られています。このままだとお別れの前に目的を果たせません」
「わかってる。わかってるんだけどよぉ……こっちは何十年もこれでやってきてんだ。そう簡単にはいかねえよ。照れくさくて、死んじまいそうだ」
「そんなに言いにくいらなら、俺が代わりに言いますけど」
元も子もないことを
「わりぃけど、そうしてくれるか」
すっかり弱気になってしまったようで、
「何を言ってるんですか、だめですよ。こういうのは、自分の口で言ってこそ価値があるものです」
力強く励ますと、
「そ、そうだな。そのとおりだ」
「お客様なら、きっとできますよ」
「ああ、俺ならできる」
「そうです、その心意気です!」
「絶対に言ってやるぞ~!」
ほとんど勢いのまま鼓舞し合ったところで、
何事もなかったように食事が再開される。
さっき気合いを入れ直した成果を期待するが、相変わらず静かな食事風景だ。時折、ぽつぽつと会話は生まれるが、それもすぐに途切れてしまう。
食事が終わっても、
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