第三章 第三話


 夜になり、そろそろ落ち着いただろうかという頃合いを見計らい、倫太郎りんたろうの部屋を再び訪ねた。

 温かいお茶を淹れて差し出すと、倫太郎りんたろうはゆっくりと飲み始める。貝のように塞ぎこんでいて、ここへ来た当初の威勢はないが、顔色はだいぶよくなったようだ。

 倫太郎りんたろうが湯呑を置いたところで、なつめはそっと声をかけた。


「あの……やっぱり奥さんと直接話したほうがいいと思います」

「放っておいてくれ。もう俺の人生は終わったんだ。あいつだって、俺に会いたかないだろう。今更話したところで、どうしようもねえ」


 倫太郎りんたろうは、半ば投げやりに言い捨てる。


「最期に会って今まで言えなかったことを伝えれば、奥様の気持ちにだって変化があるかもしれませんよ」

「言ったところで、向こうは忘れちまうんだろう? あんた、そう言ってたじゃないか」

「確かに、ここに来た記憶はなくなってしまいます……ただ、記憶に残らなくても、心に残るものはあるはずです」


 宿を出たあとは、亡者は黄泉の国へ向かい、ここに呼ばれた人は元の日常へ戻る。ここで過ごした最期のひと時の記憶は、どちらからも消えてしまう。

 それでも、記憶には残らなくても心には残るものはきっとある。そう思うのは、なつめの願望のようなものではあるけれど、まったく根拠がないというものでもなかった。

 ここに呼ばれてくる人は、亡者と同じように仮の肉体だけれど、魂だけはその人自身のものだ。ここで過ごした時間も、ここで聞いた言葉も、ここで生まれた感情も、すべて自身の心で経験している。

 たとえ記憶から消えたとしても、心に刻まれた経験は意識せずとも残っているのではないだろうか。


「それに、お客様がどうしたいかが大切だと思います。たとえ、奥様が会いたいと思っていなくても、これまでの後悔を消すことはできなくても。もしお客様が感謝を伝えたいなら、そうしたほうがいいと思うんです」


 倫太郎りんたろうは、湯呑に目を落としたまま黙っている。その顔からは、感情が読み取れなかった。


「これが、奥様に気持ちを伝える最後の機会です。お客様は、どうしたいですか」


 結局、決めるのは倫太郎りんたろうだ。

 会ったほうがいいと思うのはあくまでなつめの考えで、意見することはできても、選択は倫太郎りんたろうに委ねるしかない。自分で選択しなければ、それこそ後悔が増えるだけだ。

 なつめは言葉をかけるのをやめて、じっと倫太郎りんたろうの決断を待った。  

 やがて、小さく息を吸って、倫太郎りんたろうが口を開いた。


「……呼んでくれ」


 ぽつりと呟いた後で、倫太郎りんたろうは顔を上げる。なつめのほうに体を向け、しっかりと目を合わせてから頭を下げた。


恵子けいこをここに呼んでください」



 倫太郎りんたろうの決意を受けて、恵子けいこが眠りについた後で夜見之屋よみのやへと招いた。

 ここに呼ばれた人は、誰でも最初は夢だと考える。自分の頬をつねって夢じゃないと自ら悟ってくれる人もいれば、丁寧に宿の説明をしたうえで納得してくれる人もいる。

 ほとんどの人は、あなたに会いたがっている人がいると伝えると、そこで呼ばれた意味を理解する。

 呼ばれる側も会いたいと思っていた場合は話が早い。夢かどうかはさておき、自らすすんで会わせてほしいと言ってくることもある。なつめはまだ出くわしたことはないが、中には面会を拒絶する人もいるそうだ。恵子けいこの場合は、どちらでもなかった。

 門の前に現れた恵子けいこに、倫太郎りんたろうが最期に会いたがっていると伝えると、「そうですか」と短く答えただけだった。姿勢がまっすぐに伸びていて、凛とした品のある女性という印象だった。


 今、倫太郎りんたろうの部屋の座卓には、豪華な懐石料理が並んでいる。

 料理をひとつ運びに行っては様子を窺っているのだが、二人の会話は弾んでいるようには見えなかった。

 倫太郎りんたろう恵子けいこは座卓を挟んで向かい合って座り、黙々と料理を食べ進めている。特に気まずい雰囲気があるわけでもないので、普段から食事の時間はこういう感じなのだろう。

 これは、少し外からの手助けが必要かもしれない。台所で盆に料理をのせながら、どうしたものかと考えていると伊智いちが顔を出した。


なつめ、奥さん呼んだんだって? 様子はどう?」

「今、食事をしているんだけど……あの感じだと、お礼を言えないまま朝を迎えそう」


 ある程度予測はしていたのか、伊智いちは呆れたように肩を竦める。それから、料理をちらっと見た。


「それ、運ぶの? 手伝うよ」

「いいの?」

「うん、ちょうど手が空いたから」


 一人では一度に運べなさそだったので、二回に分けて持っていこうと思っていたところだった。「ありがとう」と言って、素直に申し出に甘えることにした。

 

 料理を持って部屋を訪ねても、まだ二人の間に会話はないようだった。筍とふきのとうの天ぷらを二人に提供しながら、なつめが料理の説明をする。


「お好みで、お塩か天つゆを付けて召し上がってください」


 話のきっかけになってほしいと願いながら笑顔で伝えると、恵子けいこが反応してくれた。


「ここのお料理、本当にどれも美味しいですね。こんなに美味しいご飯を食べたのは、結婚してすぐの旅行で泊まった宿以来かも」


 凛とした印象は変わらないけれど、どこか親しみのある微笑みに少しほっとする。堅い雰囲気の倫太郎りんたろうとは対照的に、恵子けいこには柔らかさがあった。

 どうやら二人は新婚の際に旅行にでかけたらしい。結婚当初の思い出に触れられる絶好の話題だと、なつめは笑顔で話にのっかった。


「結婚を記念に旅行に行かれたんですか。素敵ですね。どこに行かれたんですか?」

夕海ヶ原ゆうみがはらのほうに。宿から見える景色も、とても素晴らしいものでした。人生で一番、思い出に残っている旅行です。ねえ、あなた?」


 自然な流れで、恵子けいこ倫太郎りんたろうに話を振った。


「ふん……あれ以来、旅行に行ってないんだから、そりゃ一番になるさ。仕事が忙しかったんだ。仕方がないだろう」

「ええ、わかっていますよ」


 恵子けいこは、穏やかにそう返すだけだった。

 倫太郎りんたろうは、酒をちびちびと飲み進めている。

 なんて素直じゃない人なのだろう。きっと本当に言いたいことは違うはずだ。もっと別の言い方がいくらでもあるのに。

 はがゆく思っていると、一緒に料理を提供していた伊智いちが突然口を挟んだ。


「そこは、『旅行のひとつも連れていってやれなくて、すまなかった』でいいんじゃないですか」


 倫太郎りんたろうの気持ちやなつめの考えを代弁するような率直な物言いに、そこにいた全員が目を丸くして伊智いちを見つめる。

 そんな視線をものともしないで、伊智いち倫太郎りんたろうに向けて続ける。


「そういえば、お客様。奥様に何かお伝えしたいことがあってお呼びしたんですよね」


 いきなり本題を切り出した。


「あら、そうなの?」


 恵子けいこ倫太郎りんたろうに視線を移す。

 倫太郎りんたろうは目を泳がせていたが、意を決したのか酒の入ったお猪口を置いた。膝に両手をついて、気合いを入れるように鼻から息を吐き出した。


「ああ、どうしても、お前に言っておきたいことがあって、来てもらったんだ……」


 あまりに真剣な表情に、恵子けいこも居住まいを正す。


恵子けいこ……」

「……はい」

「い、今まで……」


 見ているこっちまで緊張してしまうほどだ。なつめは心の中で倫太郎りんたろうを応援する。


「い、い……今まで取引があったところに、連絡はしたのか?」


 倫太郎りんたろうは仕事の話に逃げてしまった。

 なつめは内心がっくりしたし、伊智いちの顔には呆れが滲んでいた。

 鏡池を通じて見たいたのだから、恵子けいこがいろいろ動いてくれていることは知っているはずなのに、それしか思い浮かばなかったのだろう。


「ちゃんと、済ませましたよ。留守の先方もありましたけど、後日改めてご挨拶に向かう予定です」

「そうか。それならいいんだ……」


 沈黙が流れかけたところで、恵子けいこが腰を上げた。


「ちょっと、失礼します」


 洗面に向かったようなので、ここぞとばかりに倫太郎りんたろうの傍に行く。


「お客様、この宿にいられる時間は限られています。このままだとお別れの前に目的を果たせません」

「わかってる。わかってるんだけどよぉ……こっちは何十年もこれでやってきてんだ。そう簡単にはいかねえよ。照れくさくて、死んじまいそうだ」


 倫太郎りんたろうは頭を抱えて、うなだれている。


「そんなに言いにくいらなら、俺が代わりに言いますけど」


 元も子もないことを伊智いちが提案する。


「わりぃけど、そうしてくれるか」


 すっかり弱気になってしまったようで、倫太郎りんたろうまでそんなことを言い始めた。慌ててなつめが間に入る。


「何を言ってるんですか、だめですよ。こういうのは、自分の口で言ってこそ価値があるものです」


 力強く励ますと、倫太郎りんたろうも少しは気を取り戻したようで何度も頷く。


「そ、そうだな。そのとおりだ」

「お客様なら、きっとできますよ」

「ああ、俺ならできる」

「そうです、その心意気です!」

「絶対に言ってやるぞ~!」


 ほとんど勢いのまま鼓舞し合ったところで、恵子けいこが戻ってきた。

 何事もなかったように食事が再開される。

 さっき気合いを入れ直した成果を期待するが、相変わらず静かな食事風景だ。時折、ぽつぽつと会話は生まれるが、それもすぐに途切れてしまう。

 食事が終わっても、倫太郎りんたろうは一番大事なことを伝えられずにいた。


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