第三章 第一話
庭で洗濯物を洗い終えた頃、空からぽつりと雫が落ちてきた。
朝から灰色の雲が広がっていたが、そろそろ本格的にひと雨きそうな気配だ。
不思議なことに、この島にも季節があって天気が変わる。晴れの日があれば雨の日もある。
どうやら雨季に入ったようで、ここ数日はずっと雨が続いており、からっとした青天が日に日に恋しくなっていた。
雨だからといって、さぼれば洗濯物は溜まっていくばかりだ。仕方なく、物干し竿を広間に持ち込んで乾かすようにしている。
水を吸った作業着は重く、苦戦していると入り口の方から弾むような声がした。
「
「あきちゃん……」
あきちゃんこと
人間も半妖も区別なく接したいとは思っていても、人間同士だとやっぱり通じる部分も多く、
「うわ、洗濯物こんなにあるんだ。呼んでくれたら、ぼくも一緒にやったのに」
「でも、自分の仕事もあるでしょ?」
「そんなのいいの、いいの」
「この前、夜中にお腹が空いちゃって、台所あさりにいったんだけど。そしたら、
「ふふ。でも夜中に会ったら、わたしも叫んじゃうかも」
雑談をしながら一緒に作業をしていると、大変な仕事もあっという間に楽しい時間に変わる。気がつけば、四方を洗濯物に囲まれていた。
秘密基地のようだなと思いながら眺めていると、再び入り口から声がした。
「
声で
「手が空いたから来たんだけど……」
「お、助っ人きたみたいだし、ぼくは持ち場に戻るね」
「うん、ありがとう。あきちゃん」
さっきまで
「もう、ほとんど終わってるね」
「あきちゃんに手伝ってもらったの。あきちゃん、仕事が早いから思ったより早く片付いたんだ」
「……あきちゃんって、なに?」
「え?」
質問の意図が掴めず、少し考える間を置いてから答える。
「えっと……名前が
「ふうん……」
半妖の世界ではそういう文化がないのか、それとも単に雑談として聞いただけなのか。洗濯物を見つめたまま、
旅館での仕事にもだいぶ慣れてきたし、他の従業員たちと話す機会も増えた。けれど、その
「最近、よくあの子と一緒にいるよね」
あの子というのは
「話しやすくて、いい子だよ。しっかりしてるから、つい甘えちゃうんだよね。別の館の担当だから、あまり頼りすぎるのもよくないなとは思ってるんだけど」
「呼んでくれたら、俺手伝うよ」
「うん、ありがとう」
言いながら、
ときどき、自分が何かしてしまったのだろうかと悩むこともあった。それに、もっと
黙々と手を動かすうちに、残り少なかった洗濯物はすべて干し終えてしまった。
「これ、ちゃんと乾くかな?」
要塞のようにぐるりと張り巡らされた洗濯物を見渡しながら、
「さすがに量が多いから、無理かも。仕方ない、妖に頼ろう」
それから
「
少しして、廊下から雲の塊のような物体がふわふわと漂いながら、こちらにやって来た。近づいてきた雲を見上げながら、
「あいあい、なんでしょう?」
「ちょっと洗濯物、乾かすの手伝ってもらえない?」
「あいあい、よろこんで。お安いごようですよ」
雲がぐにゃりと形を変えながら球体に変わる。真円になったところで、ぱっと発光した。光だけでなく熱も発しているようで、陽向ぼっこをしているときのような温かさが肌を撫でる。まるで、小さな太陽のようだった。
「ここは、おいらにお任せください。ふっかふかに乾かしておきますから」
「ありがとう。燃やさないようにだけ気をつけてね」
「大丈夫でございやすよ。もし燃えても雨になって消火しますんで、火事になったりはしやせん」
どうやら
「そういうことじゃないんだけど……まあ、いいや、よろしくね」
この場は
「妖って本当にいろいろな子がいるよね」
並んで廊下を歩きながら
「ね、面白いよね」
でも、それはきっと自分も同じなのだろうと思う。心が居場所を見失い、ずっと宙にふわふわと漂っているような感覚がする。
さらに雨の日が、二日続いた。
この日、
門で出迎えて部屋まで案内する間、
しかし部屋に入り、どすんと座布団に腰を下ろすなり、態度が一変した。
「仲居さん! お茶の一杯くらい出してくれないかね」
命令するような口調に、
「は、はい。すぐにご用意します」
ふんと小さく息を吐かれ、胃のあたりがきゅっと痛む。
余裕がある時は、お客さんが来る直前に事前にお茶とお菓子を用意しておくこともある。しかし、今日は他のお客さんの助っ人に行っていて、準備が間に合わなかったのだ。
すぐに台所に向かおうと部屋を出かけたところで、襖が開いた。
「失礼します」
「おい、仲居さん! 座布団をもう一枚くれ」
「は、はい。すぐに」
部屋を出ていこうとした
二重に敷いた座布団の上に座り直した
「おい、仲居さん! 耳かきを持ってきてくれ」
「はい。耳かきは、えっと……」
あたふたしている
「耳かきなら、そこの棚に入っていますので、ご自由にどうぞ」
呆れた顔で部屋の隅にある棚を手のひらで指し示す。すると、
「お客様、どうぞ」
ほっとしたところで、
「ごゆっくりどうぞ」
「ちょっと、
「なにって言われても」
部屋を後にするなり、
部屋の前で話すわけにもいかないので、今度は
めずらしく
「なんであんな偉そうなわけ? ……もしかして、人間の男ってあれが普通なの?」
「ううん。みんながみんな、ああいう態度なわけじゃないから」
「じゃあ、あの客がおかしいんだ。追い出していい?」
「だめだよ。だめ」
部屋に戻ろうとする
「
「何言ってんの。あんな横柄な神様がいるわけないじゃん」
心底信じられないみたいな顔をされると、棗は「うっ」と小さなうめき声がこぼして黙るしかなかった。
人間の世界では常套句のように使われる言葉も、
「とにかく、お客さんに文句を言っても仕方ないでしょう?」
「じゃあ、俺が担当を代わるよ」
「ううん、大丈夫。きっと癖のあるお客さんはこれからだって来るだろうし、その度に代わってもらうようじゃ仕事にならないよ。自分でうまくやる方法を身に付けるしかない」
真剣に伝えると、
「そっか、わかった。でも何かあったら言って」
「うん、ありがとう」
話が落ち着いたところで、再び
「仲居さん! おーい、仲居さん!」
襖を越えて廊下まで響いてくるのだから、なかなかに大きい声だ。
「やっぱり、俺ひとこと言ってくる」
「
「だって、
襖を開ける寸前で
「はい、ただいま!」
しかし、
「おい、母さん!」
「…………へ?」
つい、間の抜けた声で聞き返してしまう。聞き間違いだろうか、今確かに「仲居さん」ではなく「母さん」と呼ばれた気がしたのだが。
答えを求めて
どう声をかけていいかわからず、後ろにいた
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