第三章 第一話


 庭で洗濯物を洗い終えた頃、空からぽつりと雫が落ちてきた。


 朝から灰色の雲が広がっていたが、そろそろ本格的にひと雨きそうな気配だ。なつめは、急いで洗濯物を建物の中に運び入れることにした。


 不思議なことに、この島にも季節があって天気が変わる。晴れの日があれば雨の日もある。

 どうやら雨季に入ったようで、ここ数日はずっと雨が続いており、からっとした青天が日に日に恋しくなっていた。

 雨だからといって、さぼれば洗濯物は溜まっていくばかりだ。仕方なく、物干し竿を広間に持ち込んで乾かすようにしている。

 水を吸った作業着は重く、苦戦していると入り口の方から弾むような声がした。


なつめ! ぼくも手伝おっか?」

「あきちゃん……」


 あきちゃんことあきらは、なつめたちとは別の館で働いているが、手が空いたときに手伝いに来てくれることがある。なつめにとって、ここで初めて会った人間の従業員だ。

 人間も半妖も区別なく接したいとは思っていても、人間同士だとやっぱり通じる部分も多く、あきらとの会話は自然と盛り上がった。さらにあきらの人懐っこい性格もあって、打ち解けるまでにそう時間はかからなかった。


「うわ、洗濯物こんなにあるんだ。呼んでくれたら、ぼくも一緒にやったのに」

「でも、自分の仕事もあるでしょ?」

「そんなのいいの、いいの」


 なつめの心配を明るくはねのけて、あきらが隣に立つ。

 あきらは、なつめの三つ下で十四歳だそうだ。聞いたところによれば、なつめよりひと月くらい早くここに来たという。けれど、たったひと月の差とは思えないほど、あきらは宿や島のことをいろいろ知っていて、なつめにも積極的に教えてくれる。そんなあきらを見ていると自分も頑張ろうと思えるし、なつめから聞きにいくことも多くなっていた。


「この前、夜中にお腹が空いちゃって、台所あさりにいったんだけど。そしたら、兆司ちょうじさんと出くわしてさ。思わず『出たー!』って叫んじゃったよ。後ですっごい怒られた」

「ふふ。でも夜中に会ったら、わたしも叫んじゃうかも」


 雑談をしながら一緒に作業をしていると、大変な仕事もあっという間に楽しい時間に変わる。気がつけば、四方を洗濯物に囲まれていた。

 秘密基地のようだなと思いながら眺めていると、再び入り口から声がした。


なつめ、いる?」


 声で伊智いちだとわかった。「うん、いるよ」と返事をしながら、洗濯物の垂れ幕をよけて顔を出す。


「手が空いたから来たんだけど……」


 伊智いちが切り出すと同時に、なつめの隣からあきらも顔を覗かせる。洗濯物のせいで見えていなかったのか、伊智いちはそこで初めて存在に気づいたようで、「あっ」と気まずそうに言った。


「お、助っ人きたみたいだし、ぼくは持ち場に戻るね」

「うん、ありがとう。あきちゃん」


 あきらは、へへと照れ笑いを浮かべ、手を振って去っていく。伊智いちとすれ違うときには「お疲れさまです」と言って、ぺこっと頭を下げてから出ていった。

 さっきまであきらがいた場所に、今度は伊智いちが立った。


「もう、ほとんど終わってるね」

「あきちゃんに手伝ってもらったの。あきちゃん、仕事が早いから思ったより早く片付いたんだ」 

「……あきちゃんって、なに?」

「え?」


 質問の意図が掴めず、少し考える間を置いてから答える。


「えっと……名前があきらだから、あきちゃん。愛称みたいなものだよ。仲良くなると、そういうのを付けて呼び合うの」

「ふうん……」


 半妖の世界ではそういう文化がないのか、それとも単に雑談として聞いただけなのか。洗濯物を見つめたまま、伊智いちはいつになく気のない返事をする。


 なつめがこの宿で働き始めてから、早くもふた月が流れた。

 旅館での仕事にもだいぶ慣れてきたし、他の従業員たちと話す機会も増えた。けれど、その分伊智いちと話す時間が減っていた。最初に比べたら縮んだと思えた距離も、ふとした瞬間に遠ざかったように感じることがある。


「最近、よくあの子と一緒にいるよね」


 あの子というのはあきらのことだろう。伊智いちがめずらしく人間に関心を持っていることに驚きつつ、話を続ける。


「話しやすくて、いい子だよ。しっかりしてるから、つい甘えちゃうんだよね。別の館の担当だから、あまり頼りすぎるのもよくないなとは思ってるんだけど」

「呼んでくれたら、俺手伝うよ」

「うん、ありがとう」 


 言いながら、なつめは顔を向けるけれど、伊智いちはずっと手元に目を向けたままだ。言っていることは優しいのに、なぜか伊智いちを遠くに感じる。

 ときどき、自分が何かしてしまったのだろうかと悩むこともあった。それに、もっと伊智いちと仲良くなりたいなつめにとっては、なんだかもどかく感じてしまう。

 黙々と手を動かすうちに、残り少なかった洗濯物はすべて干し終えてしまった。


「これ、ちゃんと乾くかな?」


 要塞のようにぐるりと張り巡らされた洗濯物を見渡しながら、なつめが言う。


「さすがに量が多いから、無理かも。仕方ない、妖に頼ろう」


 それから伊智いちは、宙に呼びかけた。


空真似そらまね、いる? お願いがあるんだけど」


 少しして、廊下から雲の塊のような物体がふわふわと漂いながら、こちらにやって来た。近づいてきた雲を見上げながら、なつめは今朝の空模様に似ているなと思う。


「あいあい、なんでしょう?」


 空真似そらまねの声は、子どものように高くて楽しげだった。


「ちょっと洗濯物、乾かすの手伝ってもらえない?」

「あいあい、よろこんで。お安いごようですよ」


 雲がぐにゃりと形を変えながら球体に変わる。真円になったところで、ぱっと発光した。光だけでなく熱も発しているようで、陽向ぼっこをしているときのような温かさが肌を撫でる。まるで、小さな太陽のようだった。


「ここは、おいらにお任せください。ふっかふかに乾かしておきますから」

「ありがとう。燃やさないようにだけ気をつけてね」

「大丈夫でございやすよ。もし燃えても雨になって消火しますんで、火事になったりはしやせん」


 どうやら空真似そらまねは、形を変えてどんな天気にでもなれる妖らしい。


「そういうことじゃないんだけど……まあ、いいや、よろしくね」


 伊智いちからの言葉に応えるように、太陽のかたちをした空真似そらまねがぴかっと光る。

 この場は空真似そらまねに任せ、なつめ伊智いちは広間を出た。


「妖って本当にいろいろな子がいるよね」


 並んで廊下を歩きながらなつめが言うと、伊智いちが振り向く。


「ね、面白いよね」


 伊智いちと視線が合って、微笑み返される。それだけのことが無性に嬉しくて、胸をくすぐられた。やっぱり最近の伊智いちは急に優しくなったり、少し冷たくなったり変だ。 

 でも、それはきっと自分も同じなのだろうと思う。心が居場所を見失い、ずっと宙にふわふわと漂っているような感覚がする。



 さらに雨の日が、二日続いた。

 この日、なつめは新たにお客さんを担当することになった。年齢は五十手前で、かつら倫太郎りんたろうという人間の男性だ。

 門で出迎えて部屋まで案内する間、倫太郎りんたろうは堅い表情で「うむ」と頷くだけで、無口な印象だった。

 しかし部屋に入り、どすんと座布団に腰を下ろすなり、態度が一変した。


「仲居さん! お茶の一杯くらい出してくれないかね」


 命令するような口調に、なつめは肩をびくりと揺らした。


「は、はい。すぐにご用意します」


 ふんと小さく息を吐かれ、胃のあたりがきゅっと痛む。

 余裕がある時は、お客さんが来る直前に事前にお茶とお菓子を用意しておくこともある。しかし、今日は他のお客さんの助っ人に行っていて、準備が間に合わなかったのだ。

 すぐに台所に向かおうと部屋を出かけたところで、襖が開いた。


「失礼します」


 伊智いちが床に正座したまま、頭を下げる。その傍らには、お茶とお菓子がのった盆があった。どうやら代わりに用意してくれたみたいで、なつめは心の中で盛大に感謝を伝えた。

 倫太郎りんたろうは出されたお茶を黙ってすすると、また声を上げる。


「おい、仲居さん! 座布団をもう一枚くれ」

「は、はい。すぐに」


 部屋を出ていこうとした伊智いちだったが、倫太郎りんたろうの声にぴたりと足を止めた。振り返った伊智いちは、思いっきり眉根を寄せている。

 二重に敷いた座布団の上に座り直した倫太郎りんたろうから、次の要求が飛んでくる。


「おい、仲居さん! 耳かきを持ってきてくれ」

「はい。耳かきは、えっと……」

 

 あたふたしているなつめに代わって、伊智いちが答える。


「耳かきなら、そこの棚に入っていますので、ご自由にどうぞ」


 呆れた顔で部屋の隅にある棚を手のひらで指し示す。すると、倫太郎りんたろうの額のしわがどんどん深くなっていった。

 倫太郎りんたろうが怒鳴り始める前に、なつめはさっと棚に駆け寄り、中から耳かきを探し当てる。


「お客様、どうぞ」


 倫太郎りんたろうは、ふんと鼻を鳴らして耳かきを受け取る。

 ほっとしたところで、伊智いちに腕を掴まれた。戸惑うなつめをぐいぐいと部屋の外へと引っ張ていく。


「ごゆっくりどうぞ」


 伊智いちはまるで心のこもっていない平淡な声で告げて、襖を閉めた。


「ちょっと、なつめ。なにあの客」

「なにって言われても」


 部屋を後にするなり、伊智いちに詰め寄られる。

 部屋の前で話すわけにもいかないので、今度はなつめ伊智いちの腕を引いて廊下の隅まで連れていく。

 めずらしく伊智いちは怒っているようだった。


「なんであんな偉そうなわけ? ……もしかして、人間の男ってあれが普通なの?」

「ううん。みんながみんな、ああいう態度なわけじゃないから」

「じゃあ、あの客がおかしいんだ。追い出していい?」

「だめだよ。だめ」


 部屋に戻ろうとする伊智いちを引き止めて、なんとかなだめる。


伊智いち、落ち着いて。ほら、お客様は神様だって言うじゃない」

「何言ってんの。あんな横柄な神様がいるわけないじゃん」


 心底信じられないみたいな顔をされると、棗は「うっ」と小さなうめき声がこぼして黙るしかなかった。

 人間の世界では常套句のように使われる言葉も、伊智いちにはまるで通用しない。


「とにかく、お客さんに文句を言っても仕方ないでしょう?」

「じゃあ、俺が担当を代わるよ」


 伊智いちが、気遣いから言ってくれているのはわかる。それでも、なつめは首を横に振った。


「ううん、大丈夫。きっと癖のあるお客さんはこれからだって来るだろうし、その度に代わってもらうようじゃ仕事にならないよ。自分でうまくやる方法を身に付けるしかない」


 真剣に伝えると、伊智いちもその想いを汲んでくれたようだった。それ以上は反論しようとせず、自分を納得させるように頷く。


「そっか、わかった。でも何かあったら言って」

「うん、ありがとう」


 話が落ち着いたところで、再び倫太郎りんたろうの呼ぶ声が聞こえてきた。


「仲居さん! おーい、仲居さん!」


 襖を越えて廊下まで響いてくるのだから、なかなかに大きい声だ。

 伊智いちだけでなく、さすがになつめも呆れてしまう。伊智いちは額に手を当てて息を吐くが、やり過ごしたはずの怒りが戻ってきたようだ。


「やっぱり、俺ひとこと言ってくる」

伊智いち、いいから」

「だって、なつめに何かあってからじゃ……」


 襖を開ける寸前で伊智いちをなんとか押し留めている間にも、中から「おーい!」と呼ぶ声が聞こえる。


「はい、ただいま!」


 なつめ伊智いちの体をすり抜けて、先に部屋に入った。なつめの顔を見るなり倫太郎りんたろうが何か言おうと口を開ける。息を吸う音まで聞こえて、大きな声に備えて身構えた。

 しかし、なつめに飛んできた言葉は意外なものだった。


「おい、母さん!」

「…………へ?」


 つい、間の抜けた声で聞き返してしまう。聞き間違いだろうか、今確かに「仲居さん」ではなく「母さん」と呼ばれた気がしたのだが。

 答えを求めて倫太郎りんたろうを見るが、顔を伏せたままだ。自分の失態を恥じるように目を閉じて、顔を真っ赤にしている。

 どう声をかけていいかわからず、後ろにいた伊智いちに視線を送る。伊智いちも困惑を示すように肩を竦めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る