第三話

 ◇


 ふわりと漂った沈丁花の香りに、ふっと目を覚ます。


 久しぶりに、懐かしい夢を見てしまった。寝支度をして床についたが、それほど長い時間は眠っていなかったのか、部屋の置き時計はまだ日付が変わる前の時刻を指していた。


 ずいぶん中途半端な時間に目を覚ましてしまった。窓の外はまだ当然真っ暗で、草木も寝静まる真夜中だ。月は雲に隠されているのか、部屋の中はいつもよりも薄暗かった。


 三年前のあの夏、わたしは先生に連れられてこの建物にやってきた。一通りの医療設備が整っているこの場所は、先生の祖父が医術や幻術の研究に使っていた隠れ家らしい。


 明確な言葉はなかったが、わたしと先生は恋人同士――いや、公に認められることがないだけで、夫婦といってもいい関係なのだろう。あえて「先生」と呼び続けるのは、彼からけじめとして頼まれているからだった。


 ――せめてきみの病気が治るまでは、あくまで医者と患者でいよう。


 そうでないと病を治すのも忘れてわたしに溺れてしまいそうだと、先生はなんてことないように告げた。その願いを受けて、ともに暮らし始めて三年が経った今でも、彼を先生と呼び続けている。


 この建物にはほとんどふたりきりで暮らしていたが、まれに先生の患者が短期間入院することもあった。もちろん、わたしの家の人間を葬った過去があるから、大手を振って診療しているわけではないだろうが、弱っている子どもや貧しい若者を治療するために、一時的にこの建物を使っていた。


 わたしは彼らとの接触は禁じられていたから、話したことはない。ただこのところになって、若い令嬢の患者が増えたのが気になって、つい、蝶に頼み込んでしまったのだ。「友だちがほしい」と。


 本当に友人を欲していたのが半分、先生が他の令嬢に心移りしていないか心配になったのが半分だった。蝶がその気持ちまでも見透かしていたのかはわからないが、従順にわたしを彼女のもとへ導いてくれた。


 籠に閉じ込められた小鳥のように震える、千花さんのもとへ。


 声を失った彼女は、終始何かに怯えているようだった。病を治すために入院しているはずなのに、すこしも休息を取れている様子がない。それどころか、会うたびに痩せ細り、塞ぎ込んでいくようだった。


 先生が彼女に心移りしているのでは、なんて考えは初対面のときに吹き飛んだ。むしろ、千花さんが心配でならない。


 ……先生が、何か酷いことをしていなければいいのだけれど。


 先生は優しそうに見えて、目的のためならば手段を選ばない冷酷なひとだ。それはわたしがいちばんよくわかっている。何もなければいいと思う反面、千花さんのあの様子を見ている限りそれは都合のいい願いでしかないと思う自分も確かにいた。


 ……それに、あのびんの中身は……。


 千花さんが探していた真珠とともに、液体の中に詰められていた赤黒い塊が脳裏をよぎる。忘れたくても、眼裏に焼きついて離れてくれない。何かよくないものなのだと言うことは一目でわかった。


 いや、本当は、わたしはもう心のどこかで正しく理解してしまっているのかもしれない。ただ、先生がそこまで残酷なことをしているだなんて信じたくないだけで。


 あのびんを見てから数日が経つが、再びあの部屋に近づくことは固く禁じられていた。それどころか、あの部屋で意識を失ったのを最後に、千花さんにも会えていない。先生はあれから日中出かけるのもやめたようで、一日中わたしを監視しているのだ。しかもこのところあの蝶を呼び出すことも叶わない。そのせいで、先生の監視の目が離れる夜中に千花さんに会いにいくこともできなかった。


 ふと、薄手のレースのカーテンが、夜風にふわりと舞い上がる。月影を受けて、それは銀色に染まっていた。いつの間にか、月が出ていたらしい。


 ……あら、でもわたし、窓を開けたかしら?


 その疑問と共に、黒い影が降ってきた。寝台に押し倒されると同時に、大きな手に口を塞がれる。


「――騒いだら殺す、嘘をついても殺す。ぼくは幻術師だ。言葉に偽りがあると判断した瞬間にこの喉を吹き飛ばす」


 先生よりもすこしだけ若く、甘い響きのある青年の声だった。


 わたしの口を塞ぐ手はそのままに、もう一方の手が軽く喉に押し当てられる。幻術など使わずとも、そのまま片手でわたしのことなど縊り殺してしまえそうだ。


 幻術師の恐ろしさなんて、誰よりわたしが知っている。どう抗っても勝てない相手だ。そう割り切ってしまえたせいか、却って頭の中は冷静だった。


 こくりといちどだけ頷いて了承の意を示すと、招かれざる客人はゆっくりとわたしから手を離した。同時に月影が、相手の顔を照らし出す。


「……先生?」


 思わずそう口走ってしまうほど、目の前の青年は先生にそっくりだった。よく見れば先生より数歳若いが、顔立ちは本当によく似ている。違うところと言えば、先生とは違って薄水色の瞳を持っているところだった。


「叔父を――月雲朧を知っているんだな。ここにいるのか」


 先生の名を呼ぶその声には、底冷えするような憎悪が秘められていた。自分が呼ばれたわけでもないのに、びくりと肩が震える。


 ――一緒に暮らしている甥はね、朔くんと言ってとてもいい子なんだ。兄さんに似て賢いし、義姉さんに似て心優しい。ぼくが見つけ出すまではつらい目に遭っていたようだけど、今はどうしているかな。幸せになっていてほしいな。


 先生が帝都に対する未練らしいものを口にしたのは、そのいちどきりだった。人に比べて極端に心のゆらぎがすくない先生が、他人の幸福を願う言葉を口にすることなどない。それだけ、甥は特別な存在なのだと思っていた。


 甥もまた、先生を慕っている様子だったが、この口ぶりは予想外だ。――いや、親愛を染め替えるほどの憎悪を、先生が彼に抱かせただけかもしれないけれど。


「朧先生はここにいるわ。……わたしの、主治医だもの」


「千花お嬢さまは――月雲千花という名の女性はいるか」


 千花さんの名を聞いたとき、先生は姓を教えてくれなかった。それは月雲の名を隠したかったからなのかもしれない。


「いるわ……わたしのお友だちよ」


 薄暗がりの中で、青年がわずかに息を詰める。千花さんがここにいると確信して、絶対に助け出すと言わんばかりに瞳の鋭さが増した。それだけ彼にとって大切な存在だということだ。


「わたしは蝶子というの。あなたは……月雲朔さんね。千花さんの恋人なの?」


「ぼくはお嬢さまの夫だ」


 迷いもなく口にした割には、千花さんのことを「お嬢さま」と呼ぶなんて不思議な人だ。


 思わず、くすりと微笑んでしまう。きっと、彼なりのこだわりがあるのだろう。それはなんだか、先生がわたしに名前を呼ばせない頑なさとよく似ている気がした。


「ふふ、あなたはやっぱり先生の甥っ子さんなのね」


 青年はあからさまに眉を顰めた。先生よりもずっと、表情が豊かなひとだ。命の危険がある状況で呑気に笑うわたしを怪訝に思っているのだろう。無理もない話だ。


「お嬢さまはどこにいる。……気配はあるのにまるで見つからないんだ」


「千花さんは、別の部屋で休んでいるわ。……いえ、あなたがこうして助けに来たということは、閉じ込められていると言ったほうが正しいのかしら」


 階段を無理に駆け降りようとしたときも、真珠を探してほしいと言い出したときも、彼女は逃げ道を探っていたのかもしれない。彼女の声なき声を聞き届けることができなかった自分が情けなかった。


「ひとつだけ教えて。先生は――朧さんは、どんな悪いことをしているの?」


 薄水色の瞳が、すっとわたしに向けられる。真実を伝えても耐えられる相手なのか、見定めているのだろう。裏を返せばそれは、この青年の優しさの証のような気がした。


「お嬢さまを攫った上に、人を――十人以上の令嬢を殺している。遺体にはすべて心臓がなかった」


 心のどこかで覚悟していたことなのに、ぐ、と息が詰まった。悲しくて、なぜだか却って笑えてきてしまう。


 ――新しい治療を見つけたんだ。ちょっとした手術になるから、数日眠っていてくれるかい。


 ここに来てからしばらくしたころ、先生はそう言ってわたしを眠らせてなんらかの治療を施していた。その治療のあとは、決まってまるで別物のように心臓が元気に拍動していて、本当に治るかもしれないと嬉しく思ったものだ。


 それでも、二月か三月が経つと心臓がまた痛み、息切れがすることが多くなった。その度に先生は「新しい治療」をしてくれたけれど、思うようにいかないことを先生は焦っているようだった。


 ……そう、あの赤い塊は、どなたかの心臓だったのね。


 持ち主を失ってなお、幻術で動かされていたのだろう。いつか、わたしの胸に植え込むために。


「そっか……そっかあ」


 先生は、鬼だ。きっと、人として生まれてきてはいけないひとだった。


 目的のためならば、どれだけの人を傷つけても構わないと考えている。それは、言い聞かせて直るようなものではないのだろう。先生の生まれ持った性質だ。藤花家の人間と十人以上の令嬢をその手にかけているのだから、わたしが知っているだけでも三十人近くの人間を殺めていることになる。


 それらすべては、わたしのために行われたことだ。その事実が重く、鮮烈に、心にのしかかる。わたしは悪くない、なんてどうしたって言えない。歪んでいると知って受け入れた愛が、わたしの知らないところでこんなにも大きく取り返しのつかないかたちで育っていたなんて。


 もっと救えないのは、こんな話を聞いてもなお、わたしは先生を愛しているということだ。


 どれだけの人を殺していてもいい、災厄のような存在でも、鬼でもいい。先生というだけで、狂おしいほどに愛おしかった。


 先生を鬼にしたのはわたしだ。先生が悪いひとならば、当然わたしも裁かれるべき人間だった。


 心の中で、静かに決意を固める。わたしたちは、けじめをつけなければならない。


「……わたしね、ひとつだけ幻術が使えるの。わたしがほしいもののところへ、導いてくれる瑠璃色の蝶を出せるのよ」


 ゆっくりと寝台から起き上がると、青年もそれに合わせて距離をとった。ふわり、と彼の黒い外套が靡く。


「でも、このところその蝶が出せなくて……それさえ出せれば今すぐにでも千花さんのもとへ案内できるのだけれど……」


 不思議なことに、あの蝶に導かれなければそもそもあの部屋にたどり着くことができないのだ。おそらく先生が幻術で、千花さんのもとへ辿り着かせないようにしているのだろうと思う。朔さんの手を借りてもよかったが、先生に見つかってはいけないことを思えば蝶の力に頼るほうが確実な気がした。


 朔さんはしばらくわたしの姿を眺めると、ふいにわたしの左手をとった。つい最近、先生から贈られた腕飾りがしゃらりと揺れる。細やかな銀の鎖が連なったような意匠で、一粒だけ瑠璃色の石がくくりつけられている可憐な品だった。


「これは幻術封じの腕輪だ。触れるだけで幻術が使えなくなる。……外させてもらおう」


「幻術封じの腕輪……?」


 ――ぼくがいいって言うまで、外しちゃだめだよ。


 先生はそう言って、恭しく腕飾りをつけてくれた。先生から装飾品を受け取ることは珍しくなかったが、腕飾りは初めてで嬉しくてついつけ続けていた。まさか、幻術を封じる効果があったなんて。


 腕輪を外されると、ほんのすこしだけ体が軽くなったような気がした。指先まで、暖かな力が巡っていく。


「この腕輪……布に包めば持っていっても構わないかしら?」


 引き出しから藤色の布を取り出して、布越しに腕輪をつまむ。朔さんの瞳が一瞬、警戒するように細められた。


「……ぼくにつけようとしているなら無駄だ。そんな隙を与えるつもりはない」


 確かに朔さんは黒い手袋をつけていて、素肌を見せていない。対策は万全のようだった。


「違うわ。……ただ、先生にいただいた大切なものだから持っていたいだけ」


 布に包んだ腕輪を、そっと懐にしまう。朔さんの警戒心は完全には拭えなかったようだが、無理やり奪おうとしてこないあたり彼は優しく、甘かった。彼は、先生と似ているようでまるで違う。人らしい心の揺らぎと思いやりに満ちた、立派な人間だった。


「お待たせしたわ」


 朔さんを見上げ、わずかに微笑んでから指を組む。あの子を呼び出すのも、これが最後かもしれない。


「……お願い、千花さんのもとへ案内して」


 その瞬間、暗闇に瑠璃色の光が灯った。それはだんだんと輪郭を得て、見慣れた瑠璃色の蝶に変化していく。きらきらと鱗粉を振り撒きながら、蝶はさっそく扉のほうへ向かった。


「行きましょう、千花さんのもとへ」


 朔さんと並び立って、蝶を追いかける。


 最初で最後の真夜中の散歩が、幕を開けようとしていた。

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